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南米で南北(追記あり)

*『桜姫 ~清玄阿闍梨改始於南米版』 シアターコクーン (2009.6.26)


四世鶴屋南北作品の生々しさは、そりゃインパクトの強いものなのだけれど、これが「人間の本能」とか「情欲」とかのありがちな言葉で伝えられるとき、えらく多くのものをとりこぼしているような気がしていたのです。そういう単語で説明しても、まあ間違いではないのだけれど。

で、まずこれらの説明に足りていないのは、生活感のある「小汚さ」なのかもしれない、と。生活も隣人への接し方も雑だし、家財やら服装も洗練するべくもなく埃にまみれている。桜姫が堕ちていった下層の市井とはきっとそういう場。であるからこそ、目先の物欲も性欲も、情けなくも安直に露呈するのでしょう。舞台を南米にうつし翻案した本作では、この「小汚さ」というエッセンスがごく自然に現前してきます。


マリア(=桜姫;大竹しのぶ)は北の下層社会にくだってのち、娼婦となって幌荷台付きバイクで商売をする。設定が南米ということもあるのだけれど、視覚的には一昨年にさいたま芸術劇場で上演していたガルシア=マルケス原作『エレンディラ』に近いものがあるかと。
エレンディラも西洋近代的な意味でいう「自我」の有無ははっきりしないところがありますが(「自我」がなきゃいけないって意味ではなくて)、本作のマリアも自身の意思でものごとを決定しているのかどうか不透明な存在となっています。歌舞伎版では最後に亭主であり仇である権助を討ち果たしお家再興、という自我の発露を見せますが、マリアは身投げする最期すら確たる意思を持っているのかよくわからない。


そのかわり(それゆえに、というか)、彼女は周囲の人物の性急で場当たり的な欲を浮き彫りにする役目を果たしています。

聖者セルゲイ(白井晃)はかつて心中を図った相手ジョゼの生まれ変わりとしてマリアを求め、共に死のうと迫る。金品と女を求めて強奪を繰り返すゴンザレス(中村勘三郎)はかつてマリアの父を強盗の際に殺害、それが露見しセルゲイから共に自死することを迫られると「生きたい、怖い」とへたり込む。

マリアはその中心にいるし何よりすべての当事者であるにもかかわらず、何を考えているのか判然としません。ただ彼女の周囲にいる人物たちの身勝手で余裕のない欲求ばかりが次々浮かび上がる。目先の物欲も露わにもなれば、なし崩しにセックスになだれ込んだりもしてしまうのが人間の常なわけで。

そのなかで、過去を引きずる聖者セルゲイと刹那的な革命家もどきの悪党ゴンザレス、対照的に見える二人が身勝手な欲という共通項で合わせ鏡になる。その下世話な欲求に、この「小汚い」世界設定は非常に似つかわしい。原作の持つ強さを提示するうえで、脚本を担当した長塚圭史の翻案の方向性は成功していると思います。


ここまでくれば原作とは相当の飛躍があるとはいえ、やはりこれを書かせたのは鶴屋南北の着想、描く人間的生々しさが基にあってこそ、ではあるでしょう。原作作品そのもので完結するのでなく、後の時代の人間が勝手にその生々しさを増幅してくれる、その引力こそが今日における南北の肝なのかもしれません。


この小汚い世界で、洗練された人間にもなれず、物欲もセックスへの欲も浅ましく持て余しながら、その浅ましさを肯定するようなココージオ役の古田新太の存在感は目を見張るものがあります。原作でココージオにあたる残月が軽みを帯びた役であるのに対し、本作のココージオはシニカルに世を眺め、その最期もドライだけれど重い。笑いと寂寥感との区切りを瞬時に作り、そのいずれにおいても大きな見せ場をつくることのできる古田の技量は、この世界設定の現出に欠かせません。
恋人関係にあるイヴァ(原作では長浦;秋山菜津子)との展開は、原作とは比べものにならないほど救いがない。マリアとの衝動的なセックスがもととなってイヴァを自殺に追い込み、イヴァの遺体の残骸を掃除するようゴンザレスに強いられる。静かに自分の最期を決めてチェアに寄りかかる彼の姿は、主役であるセルゲイとゴンザレスを忘れさせてしまう強さを持っていました。


一方で、中村勘三郎という役者は恵まれつつも非常に難しい位置に在るのでしょう。ゴンザレスについては、革命家として囃されるほどの格の大きさが見えない、というのも役柄上の話としてあるのだけれど、それとはまったく別のところで、彼が築いてきたものゆえの難題がついて回っているようです。
シアターコクーンにおいて、あるいは歌舞伎に新規客を呼び込むという意味において、当代中村勘三郎が大きな功労者のひとりであることは間違いありません。野田秀樹や串田和美を巻き込んだ歌舞伎演出は、日常的に歌舞伎を観ない層に訴えるものを持っていた。少なくとも、一見の観客を口説くという意味では、そのわかりやすさ(とりわけコミカルなパート)の提示は随一のものではありました。

難しいのは、彼のファンがそういうわかりやすい笑いに慣れ過ぎてしまっていること。彼が登場すると、観客が「笑い待ち」の状態になりがちなのです。それゆえ、笑わせる意図のないであろう箇所にも客席に笑いが生じ、本来その場面で強調されるべき効果が、笑い声にかき消されてしまう(このことは納涼歌舞伎や平成中村座での公演で、より顕著だと思いますが)。そうした環境の中で、今回のゴンザレスという役を客席に届かせるのは容易なことではなかったでしょう。

この環境はしかし、彼の築いた成功の軌跡が生んだ、恵まれたものではあるのです。そのキャラの強さだけで見る側が強い反応を示してくれるわけですから。古田新太が巧みに自身のキャラを乗りこなしているように、中村勘三郎がこの環境を乗りこなすとき、ひとつの理想形が生まれるのかもしれません。


(7月9日追記)
この『桜姫』や、他の歌舞伎でいえば『小猿七之助』にあらわれる、自分を手込めにした男性に想い焦がれ恋に発展するような女性造形、あまつさえその関係を美化するような描写には、そもそも強い違和感を覚えます。近世につくられた話であることを承知の上で書きますが、その描写に投影されている価値観、セックス観自体が嫌いです。
それでもこの南米版桜姫に著しい無理を感じなかったのは、大竹しのぶのマリアが、自我を持っているのかどうかよくわからない人物として造形されていたためでしょう。マリアの意思を無視したセックスで浮かび上がるのは、ゴンザレスやココージオの身勝手でだらしない欲求ばかり。そこに安易な美化などないのです。

ということを、今月(7月)のコクーン歌舞伎『桜姫』を観て確認しました(歌舞伎版の桜姫‐権助の手込め美化にはやっぱり嫌悪感がある)。

コクーン歌舞伎版『桜姫』は、バランスを大きく見誤っている、と思います。独立したエントリーは書きませんが、簡単に言えば、劇中のコメディシーンというのは、その劇内世界に観る側を引き込んだ上で初めて成立するものなのだ、ということ。

ストーリーが軌道に乗らないうちに、文脈の欠落したおどけを乱発して笑いをとろうとするため、いつまで経っても「劇」が落ち着かない。笑わせを意図した箇所がストーリーと絡み合っていないため、おふざけで時間が過ぎてゆく感がありました。
ただでさえ「笑い待ち」になりがちな勘三郎一座の観客は、単発のおどけ(や笑わせる意図のないであろう箇所まで)にいちいち反応してしまう。「笑い待ち」のファンに空気を持っていかれがちな一座だからこそ、シンプルに「劇」の強さを見せることがもっと意識されるべきであったかと。
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