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ジェイルハウス・シャイロック

*プロペラ『ヴェニスの商人』 東京芸術劇場・中ホール (2009.7.7)


後の時代の人たちがいくらでも好き勝手に解釈してくれる。「古典」になるというのは、つまりそういうことでもあるわけですね。


いわゆる伝統芸能などと違ってシェイクスピアの場合、継承すべしとされるのは基本的に戯曲のみです。後世の人たちが上演するにあたって、視覚表現やニュアンスの自由度は高い。だから現代風にアレンジされることもあれば、戯曲本体の想定年代に沿って道具が作りこまれることもある。あるいは意味の今様解釈もできる。いろんな人にそうやっていじられるほど、戯曲の骨格が却って浮かび上がってきたりする。

イギリスの劇団「プロペラ」によるこの『ヴェニス~』の場合、まずその骨格の強さを大事に取り出そうとしているのかもしれません。

といってもプロペラの舞台は、古典を古典として行儀よくうつす、というのとは大きく違うわけで。舞台上の人物たちは囚人服、セットが監獄という道具立ての中で、時折バイオレントになりながら(囚人間の閉塞した暴力沙汰のように)、男たちのみによって演じられる『ヴェニス~』。しかし単純な現代風アレンジの環境設定でもありません。公爵は公爵だし、ポーシャに求婚するのはあくまで○○の大公。

なのだけれど、そうした各人物らしき衣装が忠実にあてがわれてもいない。多くの男から求婚を受けるポーシャはハイヒールなど女性的なアイテムを身に着けてはいますが、頭は短く刈り込んだ男性の髪型そのまま。同時期に上演している『夏の夜の夢』でもそうでしたが、この劇団は女性役の男性が女性らしい髪型やメイクを作り込まないようです。首から上は男性俳優のまま、あくまで女として場面に存在しています。

ひとつの世界設定に安易に定位させない、これらの突き放した仕掛けによって、戯曲の骨組みが抽象されて強く前に出てきます。

囚人服、短い頭髪で視覚的には平準化した彼らは、しばしば苛立ちを直接的な暴力行為であらわし(シャイロックは他の人物に暴力を働く折、相手の目玉をくり抜く)、あるいは他者に対していともたやすく冷酷になる。もうこれはシャイロックという特定の個人が残忍なのでもなければ、ユダヤ人を嫌悪している特定の誰々が冷酷なのでもありません。
そもそも誰でもそうやって他者に対して冷淡でいられてしまう場面はあるわけで。囚人服により平準化したルックスによって、この戯曲が含んでいる人間の他者への冷淡さ、という骨格が取り出されて強調されているようです。

安易な現代的環境改変に収まらなかったこの手続きは巧みです。同時にシェイクスピアの原作の強さ、ということでもあるのでしょうが、もとの戯曲に強さや優良さを感じてしまうのは、いくらかはそれがすでに確固たるクラシックだから、でもあるわけです。そういう先入観を強く刷り込ませてしまうのがつまり、「古典」の持つブランドの力ではあるのですね。


シェイクスピアが16~17世紀に演っていた頃に俳優が皆男性だったことに関連して、プロペラのオール男性キャストとの相同性も指摘されているようですが、あまりこの形式的な類似点に重きはおかない方がよいのかなと。そのような説明をしておくことが適切な場合もありますが、プロペラの場合は平準化されたビジュアルを前提に、役柄の骨組みを抽象して巧みに表現してみせていることにこそ注目するべきではないかと思います。国内でいえば蜷川幸雄がオール男性キャストでシェイクスピアをやったりしますが、それらに登場する女性役が具象的な「女形」であるのと比較すると、プロペラのシンプル且つ強度を持った特性が見えます。


何世紀も前の作品であるゆえ、額面通り読み取ると今日の価値意識の前提にそぐわない箇所もあるわけですが、そこに再解釈がなされたり、「本当はこういう意図で書かれたんだ」という説が繰り返しあらわれるのもまた、「古典」。

『ヴェニス~』はそのまま受け取れば人種差別的とも捉えられるものです。プロペラはこの差別的表象もちょっと突き放している。劇冒頭、公爵役の俳優が中央に立ち、「クリスチャンは誰か。ユダヤは誰か(Which is the Christian? Which is the Jew?)」と問いかけ、彼の両サイドにクリスチャンのアントーニオ、ユダヤ人のシャイロックが立つ。ラストシーンも同様の配置で同じ台詞が告げられ幕となる。またこの台詞を告げる公爵役の俳優が黒人であることで、人種差別表現についての安直な結論を許さない仕掛けになっています。わかりやすい方向性を含んだメッセージよりも、回答の容易でない問いを共有するこうした姿勢の方がある種の説得力を持ったりするものです。


付記:この点、静岡芸術劇場で先月観てきたイヴォ・ヴァン・ホーヴェ演出『じゃじゃ馬ならし』(6月27日)も結構よかったのではないかと。単純なジェンダー的葛藤を超えたところでの視点を提起できていたと思います。
加えて、基本バタバタしつつもシュールなトーンの笑い、常時ドラムがリズムを刻んでつくるテンポ、終盤の「祭りのあと」感等、空気作りは秀逸。プロペラに比べればはるかに小奇麗ゆえスタイリッシュにも見えがちですが、見過ごせないいびつさを孕んでいます。
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