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~演劇とアイドルと何かと~

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「小劇場系アイドル」とかで

*劇団三年物語シーズンⅡ 『ロボット~遙か彼方の未来の記憶~』 東京芸術劇場・小ホール1 (2009.7.10)


近未来、人工知能ないしロボットと「自我」の対峙、人類の危機といった本公演のコンセプトは、古典的なものといえるでしょう。同様のテーマ設定を持つクラシックは豊富に存在します。

映画『2001年宇宙の旅』あるいは『ブレードランナー』を想起する人は少なくないでしょうし、先行して『鉄腕アトム』ももちろんある。ロボットものの系譜を見ても、アニメーションを中心に(正確には「ロボット」じゃないものも含め)こうしたテーマを有するものはいくらもある。

それらが示していますが、機械が自我を持つということは、欲求する、権利を求めるということ。時に人の意思では制御不能となること。人間外の存在にそこまでの権利を許す気のない人々との相克も生じてきます。
あるいは何を人間と呼ぶか、機械と呼ぶかという問題。さらには思考している主体自身が、人間であるという確信自体まで不安定になる。自我を持った途端、機械は人間が都合よく乗りこなしうるレベルの存在ではなくなり、人間自身の存在の不確かさをも露わにしてゆきます。


本作『ロボット』には、そのようなアイデンティティへの問いは希薄であるように思います。地下都市の中枢コンピュータ「ミライ」も、戦闘用ロボットたちも確実に自我を持っているのですが、存在としての人間との違いに葛藤を覚えるようなものとしては描かれていない。
ロボット・操が人間に恋をする際に感じる困難も、サイズや役割の違いであって、存在や権利としての違いはキーではありません。


「小さな偉大なる人類」というフレーズを繰り返しながら、これら人工知能たちは人間を疑いなく尊敬します。ミライにせよロボットたちにせよ自我を有しつつも、人間を敬うべき存在として認識することは揺るがない。とくにミライは、「人間はウィルス、宇宙生物は免疫抗体に似ている」と話し、人類が地球を滅ぼし、他星に移ればまたその星を滅ぼすような存在であるという、突き放した相対的視点を見せながら、それでも人間を「偉大」であると言い続ける。
このとき、人間を偉大だと価値づけるに至った筋道が説明されないので、意思なく(それこそ「機械」的に)人間に盲従しているように見えてしまいます。ここの示し方によっては、苦い皮肉を込めることもできたと思うのですが。

そのため、自我を持つはずのロボットが人間のために戦い続けること、ミライがクライマックスで身を賭して人類を「救う」ことに、屈折も葛藤も生じない。だって始めからこれら人工知能は、一貫して人間のための存在だったわけですから。
ミライの最後の作戦は、我が身をなげうってそれ以外の大多数を救う、というパターンのエンディングに繋がるわけですが、これは「救われる」側とミライとの間に解消しきれない軋轢があってこそ強度を持ったのではないでしょうか。ミライは常に人間を慕う存在であるため、人間を救うために自身をなげうつ決断に関して迷いがないし、そのことが招く自身への影響について意に介していないように見える。ミライが地球にいる親しい人物を思い出し嗚咽するラストシーンも、それゆえ唐突な感は否めません(「悲しみ」という感情をその時初めて手に入れた、ということであれば、なぜそのタイミングなのか、が腑に落ちるための補助線は必要かと)。


ミライを制御する人間側は、時折ミライの暴走の可能性を危惧し、操縦者に対しても管理の徹底を求めます。確かにここに、自我を持った人工物と人間との葛藤を見てとることは可能です。それならば、ミライの献身のいじらしさを際立たせるために、人間のエゴをエゴのまま、見る側に突きつけた方がよかったかと思います。

人間パートは、「自分より大切な誰かのためなら力が発揮できる」「仲間がいる、ひとりじゃない」というシンプルすぎる着地点でまとめられています。人工知能があくまで人間に忠実なものとして描かれるのならば、せめて人間パートをアイロニカルに終わらせれば、後味の深みは大きく違ったのでは。


以前からのこの劇団の特徴として、「親密な、大切な人との関係って素敵。それって金とか打算とかより大事だよね」的なメッセージが織り込まれる、という点が挙げられます。それ自体、普遍的といえば普遍的なものだし、見せ方によってはきれいにまとまるはずなのですが、悪い意味でベタ、安っぽく見えがちなのは、奥行きのある提示がされないからなのでしょうか。ちょっとの後味の苦さがあれば大きく違って見えるのだけれど。

恋愛の描き方もストレートというか、片思いでどぎまぎしている描写が多く、一方で、たとえばそこに付随するはずの性欲の情けなさなどは表出されない(それは別に良い悪いではないけれど)。平板なメッセージ性含め、結果的に、父兄や小さい子供に見せても安心、なものに仕上がっています。小劇場において多くの場合それは、訴求力が弱くなることを意味するのではないかと。


それでもなお、この劇団に突破口はある、と考えます。以前からこの劇団の主宰は、女性キャストを可愛く見せることにおいては巧みです。キャラクターファン、役者ファンを獲得することは大いにありうるでしょう。客演俳優もまた、可愛く舞台映えさせられるかどうかで選んでいるのかもしれません(全然ありだと思う)。
それから、この劇団はアクションシーンを多用しますが、殺陣をつける人が慣れているのか、それなりにまとまったものに仕上がっています。この劇団がもっとも強く人に訴えることができるのはこれら、つまり「可愛い女の子が躍動する」という要素なのではないでしょうか(アイドルの基本的要素ですね)。

それなら、開き直ってそこをメインに据えればいいのでは。所属俳優には姉役、年上女性的な役割を担える人物も、少年役の似合うボーイッシュなタイプもいる。初めて起用する客演を可愛く見せることもできる。

劇団の方向性として、提起力の強いテーマを見せることは得手じゃなさそうですし、コメディで勝負できるタイプでもない。ところどころ早口で手数の多い台詞量も、役者がまずこなせていないし、こなせても情報が説明的であるため面白さに繋がる内容かは疑問(あと、その早口を観る側が咀嚼できるかどうかもまた別の問題)。

ならば90分くらいにまとめて、可愛いキャストの躍動を売りにしてしまえばよいのではないでしょうか。実は男性キャストで魅せることも苦手ではなさそうだし、いっそ「小劇場系アイドル」みたいなもので、距離感の近いアイドルになってみる、とか(それは初期のAKB48なのか)。


最後に一点、この劇団は観客動員数への執着がなんだか強いようです。
もちろんお金を取って公演を打っているわけで、動員数が経済力に直結するのだから、動員をどうでもいいと考える人はいないのでしょうが、この劇団の場合、作品のコンセプトや問題提起よりも「動員目標」の方が強く打ち出されているようにさえ感じられます。

「多くの人に観てもらう、楽しんでもらう」ことをエンタテインメントの価値だと信じている、と主宰は書いています。まっとうなのですが、それは動員数という「数」を追求することとはいくらか違う。今回の公演ではロビーに動員目標と現状のグラフが貼り出されていました。「現状をファンと共有する」ということみたいですが、だったらその内幕さえも煽って「エンタテインメント」に転化するくらいのひねりは欲しいところです。
配布された手紙でも、カーテンコールでの主宰の言葉でも、「クチコミ」をお願いします、というコメントが来場者に向けて強調されていました。それだけだと、ただの懇願です。数字が欲しいということを開き直って表明しているのだから、その表明さえも捨て身の芸にしてしまえば、外に届きうるものになるかもしれない。そういうサイドストーリーも作りこまない限り、先述の動員数グラフ公開は同情をひくためだけのものになってしまいます。

動員を伸ばす、ということは、この劇団を観たことのない人に足を運んでもらうということです。現状観に来てくれる身近な人に向けてのクチコミ懇願は、あくまで求心力であって遠心力としては弱いような。あとクチコミって基本的にはお願いするものではないように思うし。


動員を気にするならば、この劇団についてまったく知識のない他者に訴えてゆかねばならない。たとえば公演告知チラシが毎度地味なのは、やはり大きく損をしていると思います。数あるチラシの中で、最低限、目を留めてもらわなければならないわけで、穏当にまとめる必要はないのです。鹿殺しみたいなパフォーマンス方向に行けとまでは言いませんが(あれはお巡りさんに怒られやすい活動ではあるし)、チラシや公演の事前情報でインパクトを強くする余地は、まだ充分すぎるほどあるでしょう。
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