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リア充になりたい

*歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎 第三部『お国と五平』 歌舞伎座 (2009.8.11)


『お国と五平』が今日語られるときに、その現代性(普遍性?)が評価されるというのは正当なことでしょう。けれども、その場合に言及される「現代性」が、どうしても登場人物・池田友之丞の人間性(への批判)に集約されがちなのは、いささか窮屈なように思われます。
確かに友之丞は己の境遇も性格の弱ささえも全部「俺のせいじゃない」ことにしてしまうし、お国への、良く言えば一途、普通に言えば一方的な恋慕も常軌を逸している。

本作演出者の福田逸は1997年の上演時にはこの友之丞をストーカーになぞらえ、今回の上演に際しては2008年に起きた秋葉原通り魔事件の犯人の心象風景との相同性を見ています。そうした「現代性」へのすり合わせ自体はまったく的外れではないし、今日上演するのであればそうした想定は正確なものです。

とはいえ、「現代性」をその点に集中させてしまうと、現代社会における友之丞サイドの人間を外側から批判、糾弾する方向にばかり傾斜してしまう。それは彼らをますます息苦しくさせかねない思考なのではないかと。
さらに言えば、90年前に作者の谷崎潤一郎がこの戯曲に託したのはそんな単純な「現代人」批判ではないはず。というか、谷崎はむしろ友之丞にこそ最大のシンパシーを注いでいると思うのです。


お国の夫・伊織を殺害した友之丞は、その仇討ちを果たそうとするお国と対峙し、お国への積年の想いを訴える。そもそもお国と友之丞はかつて許嫁だったのだけれど、友之丞の人格、評判が悪く、先の見込みもないと見切ってお国は許嫁の縁を切り、伊織に嫁いでいた。剣術の腕もない友之丞は、不意を狙って伊織を闇討ちにした。

人間的評価が乏しいためお国に見限られ、許嫁を解消されていた友之丞は、

「いいよな、(死んだ)伊織は。人格も立派、剣の腕も立派、男らしいって誉められて。羨ましくてしょうがない。俺なんかそんなのひとつもないもん」

恨み言をつぶやく。応えてお国は「だったらあんたも男らしくすればいいじゃんよ。それに、夫のいる私にいつまでも惚れてるってどういうことだよ」と返す。友之丞はそれに対し、

「いやそれは、俺が生まれつきこういう屈折したダメな性格なんだからしょうがないでしょ。生まれつきなんてどうしようもないでしょ。たとえばあなたは生まれつき、きれいな顔してますよ。それと同じ。そもそもがそういう性格に生まれてきちゃったんだから、そんなの俺自身のせいじゃないじゃん」

ええ、最低の言い訳なんですけど、友之丞のメンタリティを世の中の皆が「最低だ」と切り捨てられるなら、「リア充」なんていう蔑み半分、羨み半分の単語が生まれたりしないわけで。確実に友之丞サイドの人間が言い出した単語ですよね、リア充って。
で、この戯曲、ここからはどちらかといえばリア充のお気楽さと欺瞞を糾弾する話だと思うんですけれども。いや、谷崎の時代にネットはないけれど、同質のルサンチマンが吐き出されていることは間違いない。

「そんなに自分の醜さを自覚してるなら、どうして人の恋路を羨むのか」っていうお国の友之丞への見下し方もすごいのだけれども、さらにお国は、

「それほどまでに自分を慕ってくれるのなら、それを私は憎いとは思いませんよ。だから覚悟して死んでくれ」

と言う。これはまあ、仇討ちという大義名分からすれば致し方ない論理展開なのかもしれないけれど、お国は正直なところ、殺された伊織を根っから引きずっているわけではなく、むしろ気持ちは、共に仇討ちの旅を続けている自分の家来・五平へと傾いている。お国を想うあまり、姿が見明かされぬよう密かにその旅を尾行していた友之丞は、お国と五平がすでに肉体関係にまでなっていることも知っている。仇討ちの大義名分なんてもう形骸化しつつあるわけです。友之丞がそれに言及するとお国は、

「お前を殺して仇討ちを果たさないと、国へ帰れない。はやく帰って、晴れて五平と夫婦になりたいんだよ」

本音が出ました。もうこうなると二人が仇討ちを済ませたい理由は、大義などではなくて、早く公認のカップルになりたいから。正当性と私欲がごっちゃになった二人に友之丞は斬り殺されます。

手負いの友之丞は、「でもな、お国は俺と寝たこともあるんだぞ」と、あまりに小さい最後っ屁をかまし、対して五平は「恋の敵!」と言い放って友之丞にとどめを刺す。最終的には完全に色恋の私怨になっています。「恋の敵」っていう動機で殺しちゃったら、あなたも友之丞を責められないでしょうに。


生まれつきの性質ゆえに世間に認められ、立派な侍として誉めそやされる伊織に対し、友之丞は生まれつきの良くない自分に対して世間は同情もせずに疎む、と嘆く。お国が自分を見捨て伊織に乗り換えたときも、皆よくやったと言うばかりで見捨てられた我を哀れむ者もなかった、と。そういう世間が恨めしく、それに楯突くつもりで伊織を殺したのだ。友之丞はそう訴えました。

明らかに身勝手ですし、伊織が殺されるに足る理由などそこにはなにもない。秋葉原の事件になぞらえられやすいのはこのあたりの心情吐露でしょう。けれど、この話を彼の「身勝手さ」に収斂させる解釈は、やはり鬱屈した人間への理解を放棄することになるかと(「共感」などする必要はないけれど、それと相手を理解することの重要性とはまた別)。

つまり友之丞の吐露は、ルサンチマンを溜めた人間にとって世界がどのように見えがちであるか、ということの顕示でもあるわけです。

あいつだったら何でも受け入れてもらえるし認めてもらえる。自分みたいな存在は受け入れてもらえない。実際にお国と「不義密通」をはたらいたのは五平の方なのに。めぐり合わせさえ違えば、自分が五平を糾弾できるのに。不義をした五平は誉めそやされ晴れてお国と夫婦になる。自分は伊織を殺したゆえに追われる身となったが、五平は自分(友之丞)を殺すことがお国と結ばれる足がかりになるし、あまつさえ立身のための道具にもなる。

発端からいえば友之丞が悪いことに違いはないけれども、私欲と大義を混同している、そしてその混同を「仇討ち」という正当性で丸め込もうとするお国と五平の欺瞞も、友之丞の鬱屈から照射される。友之丞は(基本的には彼自身に非は大いにあるのだけれど)貧乏クジを引き続け、一方でお国たちの欺瞞さえも世間は美談にしてしまうのであろう、その理不尽さに更にルサンチマンを溜め込む。友之丞という人格を通してこそ、リア充の無自覚な、それゆえに厄介な残酷性を突きつけることができるのです(未見ですが、鈴木忠志演出版は、その残酷性が拡大提示されているのかな)。

斯様に提起するものは強いし、話の展開も良いのだけれども、基本的に地味で尺も半端なこの戯曲は、たとえば現代演劇としてどこかの劇場に出すには、引きが弱いものではあります。こういう作品を自然に興行に配置することができるというのは歌舞伎の強みでしょう。それにまた、歌舞伎座の観客にこうした精神的アンダーグラウンドの主張を見せつけることができる、というのも爽快ではあるし。性質上、上演頻度が多くならないのは仕方ないけれども、古典とは多少違う意味で、こういう演目は忘れられないようにしないと。
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