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説明しすぎの怪談

*シス・カンパニー公演『怪談 牡丹燈籠』 シアターコクーン (2009.8.12)


怪談というのは、本質的には驚かすのではなく、怖がらせるものなのではないかと。もちろん、話芸、ストーリーテリング上の一手法として、不意をついてびっくりさせるような「驚かし」を否定するものではまったくないのですが、衝撃的なシーンを「衝撃的ですよ!」とばかりに煽って大仰にしてしまうと、却って「怖さ」を際立たせることには失敗してしまうことが少なくありません。

『牡丹燈籠』は、前半は心霊的な怖さ、後半は主に人間の業に怖さをみる話です。煽って大仰にしていけないのは、後半のストーリーも同様、むしろ人間の業の怖さこそ、静かに表現されて引き立つものでしょう。
いのうえひでのり演出の本作には、怖さを表現するのに必要な静かさがいくらか欠けていたように思います。象徴的なのは、一幕目の萩原新三郎(瑛太)がとり殺される場面、それから二幕目のお峰殺害の場面。いずれも人物の死に際して、その衝撃性を煽るようにエモーショナルな音楽が流されていました。
音響・照明で煽る、というのはいのうえが劇団☆新感線で見せる手札のひとつです。大げさなイメージ作りを行なうことの多い新感線の場合はともかくとして、舞台上での話の展開自体が既に「怖い話」である今回の場合、雰囲気をさらに肉付けして盛り上げようとする演出は過剰なものであったように思います。ともすれば現実感から乖離してしまうような特殊効果は、まったく「効果」的でない追加説明のようになってしまいます。登場人物同士の交渉や怖がっているさまだけで充分、不吉な気分は伝わっているのですから。


これら各幕のクライマックスに配置される人物の死が引き立たなかった原因としてはもう一点、その場面に至るまでの各シーンにも多少、演出の過剰があったということが挙げられます。
そもそもこの脚本には、幽霊と直接的な関係のない、フェイクの驚かしシーンがいくつかあります。幽霊を見てきたばかりの伴蔵が怯えながら家に帰り、あたりを見回して「あ、出た!」と言う場面(「蚊が出てきやがった」というセリフに繋がる)や、海音如来の尊像を仕舞うために羊羹の箱を開けると虫が湧いて出て驚く、という場面などがそれです。それらの演出なども多少大げさになってしまったために、ストーリーテリングがいくらか落ち着かない印象になっていました。シンプルにやりすぎると冗長な時間が生まれてしまう、という危惧もあるのですが、伴蔵役の段田安則、お国役の秋山菜津子ら、芝居の核となる役者が巧みであるだけに、彼らの技芸に委ねて音響・照明は抑えてよかったのでは。


今作で用いられた大西信行脚本の『牡丹燈籠』のうち、現在もっともアクセスしやすいのはおそらく歌舞伎版でしょう。同時期に東劇で映像(2007年10月歌舞伎座上演のもの)が上映されていましたが、そこではいのうえ版よりもずっとシンプルに怪談を紡いでいます。主要役者が巧みであるのは今作と同様ですが、歌舞伎の場合さらに有利なのは、そもそも役者のチャームを見せることが明確な目的のひとつである点です。いわゆるスターシステムはこの場合、確実にプラスに働く。
技芸も華もある片岡仁左衛門が伴蔵、坂東玉三郎を妻お峰に配したこの時の上演では、いのうえ版に比べれば演出もぐっと抑えられてはいるものの、二人のチャームを見せることが前提になっているから、ただの会話シーンも退屈にならない。華のある二人がやりとりしているだけで充分に場が持つ、というか役者の色を隠してしまいかねない大きな特殊効果はこの場合邪魔になる。役者自体のチャームはそれだけで興味の持続をもたらすし、怖がるシーン、じゃれあうシーンを表現するのにも役者のチャーミングさは相性がよい。華のタイプは違えど巧みな役者を起用したいのうえ版も、もう少し抑えた演出で、俳優の身体を目立たせたかたちで今一度観てみたいところ。


華という点についていえば、今回の注目俳優は瑛太であったでしょう。世間的な知名度なら今回のキャストの中で目下、随一。けれども、結果的に存在感を見せることなく出番を終えてしまいました。NODA・MAP『キル』(2007年版)の際の妻夫木聡も同様でしたが、映像作品(主にテレビという媒体)に乗った際の存在感と、舞台上の存在感とは大きく作りが異なります。その当たり前のことを確認する舞台でもありました。
イメージとしては若く人気もある彼らの方が大きな華を持っていそうなのですが、『キル』ならば勝村政信に、今回の『牡丹燈籠』ならば段田安則に、完全に食われてしまう。ただでさえ巧みな段田の前で瑛太は、「動けていない」感が強くありました。瑛太演じる新三郎が、死んでもお露と一緒になりたいのか、死ぬのは嫌なのか、その間で逡巡しているのか、それははっきりさせない描き方でもよいとは思います。けれど、同一人格としてスムースに演じられていないため、新三郎の本心がわからない、というのとは別次元の見づらさがあります。

逆に秋山菜津子のお国は最高に存在感を強くしています。秋山自身の巧さがもっとも大きいのですが、恋人の源次郎とともに初めて登場するシーンをセックスから始めたことで、お国を印象づけ、また彼女のしたたかさを表現するくだりにも効果的な接続をしている。お国が源次郎への思いを強く見せる後半、彼女の存在はいよいよ強度を増し魅力的な人物になってゆきます(それゆえにラストで伴蔵とお国が待ち合わせしているようなシーンは、それに至るメンタリティがちょっと説明不足な気はしましたが)。


伴蔵、お国に段田、秋山が配された、この時点で、話の骨格さえ追えば見ごたえのあるものにはなったと思います。それだけに、冒頭に書いたような過剰な特殊効果は、今回は余計でした。現実感とは乖離した、特殊効果と相性のいい大げさな世界観を作り上げてしまったら、それはもう怪談の成立しづらい環境になってしまうのではないでしょうか。
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