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鹿のフェス

*劇団鹿殺し・回帰『赤とうがらし帝国』 下北沢駅前劇場 (2009.8.19)


演劇を観ないわけではないけれども、ミュージカルは苦手、という人は少なからずいるはずで、そうした人たちにとっての大きな違和感はたとえば、セリフ(会話)が唐突に「歌われる」ということなのではないかと。何がその違和をもたらすかというと、芝居と「歌われる」という表現スタイルとが、観る人にとって有機的にかみ合わない、つまり「芝居を歌って伝える意味がわからない。変だし。気恥ずかしいし」ということだと思います。

劇団鹿殺しのスタイルはミュージカルとは違うでしょうが、ともあれ、ロック調の楽曲と芝居とが密接につながり合って、そのどちらも格好良く見える彼らの方法論は、芝居×歌&ダンスの提供法として秀逸、かつ敷居の高くないものです。「会話が歌われる」ことに拒否反応のある人は、こういうあたりから入ってゆけばよいのかも。


この劇団の歌&ダンスパフォーマンスは、「巧げ」なスキルを見せつけるタイプのものではありません。けれども劇全体を通して運動量は多いし、華がある。この華とは、たとえば歌舞伎など有名人の存在で成立するスターシステム型の場合にいう華とは性質を異にします。小さな体躯の座長・菜月チョビ自身には異様な存在感があって、劇団にその存在は不可欠なのだけれども、それ以前に彼女たちにはまず、面白く見せる動作をつくるセンスがあるし、音楽と連動させて身体をどう使えばそれが具現できるのか、よく練っているのだと思います。つまり優秀な振り付け師たちでもある、と。

何より俯瞰した上で自分たちの売りをよくわかっているし、それを信じることができている。劇団の魅力を明確に理解しているから、ストーリー展開と歌&ダンスとを有機的に組み合わせることにも長けてゆくのでしょう。小劇場系で歌、ダンスを取り入れる劇団はしばしばありますが、何を見せたくてやっているのかがここまで明快だと強い。添えものではなく、歌を主にしても格好良く見せることができている。歌が主になる瞬間、歌にストーリーの膨らみを持たせるための従として演劇パートは存在します。


とはいえ、彼らが何より劇団であることは疑いようがない。小劇場空間において、歌って踊るだけを押し出して二時間持たせるのはきついはず。演劇としてある程度の強度を持つからこそ、歌に背負わせるストーリーにも説得力が出る。


己が「主役」になることを渇望し、想像上の「赤とうがらし帝国」に願懸けをする辛島タエの一代記的ストーリー。タエを導く周囲の人々は、彼女にその先のきっかけを与え、途上で事故死してゆく。いじめられっ子で友達のいない幼少のタエが「主役」になるべくサポートする、プロレスラーの父親。卓球に打ち込む高校時代のタエを見守るライバル・シュウジ。シュウジの兄で、タエが陶酔するバンドのヴォーカル・シンタ。彼らは死ぬとタエの骨の一部となって、主役を求めて生き永らえ続けるタエを支える。衝動と才能のままに彼らを振り回し続けたタエはシンタの面影を追いつつ、マスクマンバンド「東京ゴスニーランド」としてデビュー、武道館公演にまでこぎつける。バンドをスキャンダラスに売り出そうとするプロデューサー・ケイン浅沼にナイフで刺されながらも、武道館公演を遂行。

公演中に東京を大地震が襲い武道館倒壊、タエは意識不明のまま10年間眠り続ける。タエは眠り続け、その間に世界ではウィルスの伝染でタエの傍にいた人々も死に絶える。周囲を掻き回し、置き去りにしながらタエはどこまでも死なない。周囲に支えられながら誰も幸せにできない自分を嘆くタエは、それまでなおざりにしていた息子・アユムを思い出し、自分はアユムの「骨」にならなれる、と考える。

のですが、皆に苦労かけたぶん、最後に息子のために、なんていう小さいまとめ方をせず、最後までタエの業を見せつけて終わったことで、単純でない後味を残すことに成功しています。そこを直線的な感動で着地させてしまってはダサくなることに、たぶん作り手も気づいている。ラストに「今度は何で主役とろう」と言うタエの業は、どこまでも迷惑なはずなのに、嫌いにはなれないし心地いい。


ここではストーリーに関して興味を持続させるためにアクションや歌があって、その意味で歌&ダンスは非常に効果的な従でもありうる。というか、歌と芝居は、はっきりパート分けされながらも(だからミュージカル嫌いが敬遠するであろう、なし崩しに会話が歌われるような感じもない)、互いにもはや不可分になっているから、どちらも主になりうる。小劇場で芝居に歌を絡ませるなら、楽曲に関してもこれくらいの本気度がないとただの添えものになりかねないのです。楽曲に対してそこまでの配慮があるからこそ、オリジナルでなく既存の曲を使用する際にも、決して単なる「流用」には見えません。「必要」だから、既存曲を用いていると納得できる(『おゝ宝塚』の使い方とか良いなあ)。


上述した武道館倒壊にしてもそうだし、小学生時代のタエが学芸会で脇役をやらされるところで、父が乱入、主演の子供たちをなぎ倒してプロレスに持ってゆき、タエを無理やり主役にしてしまう場面にしても、舞台演劇でなければ説得の難しい類の展開でしょう。舞台でやったからといって必ずしも説得できるわけではないのですが、彼らの身体駆使によって、その展開がアリになってしまう。アクションを多用しても、総体として表現が雑になっていないのです。雑に見えがちなバタバタ感ではあるけれど、雑然をきちんと伝えるには細やかな神経が必要なはず。加えて、これも細やかさと通じるのですが、「笑い」をしっかりやれる劇団であることも強い。(あと、鹿殺しってプロレスのリテラシーある人たちだと思う)。


たとえばプロレスラーである父親の事故死のくだりがちょっと簡単に進んでしまった結果、時事ネタを追ったようにも見えてしまう点とかはあるのだけれど(今年はプロレスラーの死を考えるということについて、とりわけ重要な年であるだけに)、そうした部分も劇のつくり全体から考えるとき致命的な欠点とはならないでしょう。


歌やダンスを見せればエンターテインメントとして幅が広がる、くらいに考えている小劇場系の劇団たちに対する、率直なアンチテーゼにもなっている。当人たちはそんなこと考えていないかもしれないけれど。
関西のロックフェスにも参加していたらしいけれど、そういう空間には間違いなく似合うでしょうね。サマソニのミッドナイトとかに出てたら、絶対行くよ。
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