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うしろめたい

*大人計画『サッちゃんの明日』 シアタートラム (2009.10.9)


身体障害者を特別扱いせず、隠す(登場させない)でもなく、日常に在るものとして舞台に描き出す、というのは、大人計画の特徴が語られる際、はずせないもののひとつになっています。「日常にいるものとしての身体障害者」という事柄については、ある程度まで松尾スズキ自身がインタビュー等に応じて語っていることでもあるので、他者によるそういう言及は往々にして当人による発言のトレースであったりするのですが。

あやういのは、この松尾スズキの身体障害者への視線が、一歩間違うと、「これこそ平等」みたいに捉えられてしまうこと。平等でもなんでもないのが日常なわけで、世間なわけで、それを丸出しにして見せつけているのが大人計画なのですが。


今回の公演ではそういう、大人計画に対して過度に「平等」を見ようとする人々の欺瞞性について、自らのパブリックイメージを利用しながら批評しています。

劇中、脳性小児マヒを持ちながらサラリーマンとして社会に順応している沼田(小松和重)が、思いを寄せるサチコ(鈴木蘭々)に観劇を誘う(どうやら大人計画1998年の『ヘブンズサイン』のチラシを手にしている)。チケットを取ったんだ、この劇団はね、障害者を特別扱いしないで描いて云々…、と。
びっこひきであるサチコにも共感してもらえるであろうと説明を続ける沼田に、サチコは「そんなの二重の偽善みたい」じゃないか、と言い放つ。このセリフは劇団自らへの批評でもあり、大人計画に過剰に「平等」性を見ようとする人々への批評でもあります。このセルフパロディが内輪的なものに終始せず、毒のある諧謔として成立するのは彼らの築いてきたポジションの賜物、それに作者の自らに対する適度な距離感のなせるわざでしょう。


そもそも非常に水準の高いコメディをつくる劇団ゆえ、中村勘三郎ファン的な「笑い待ち」の観客も一定数はいるわけで、キャストが何をやっても(笑いを意図しない言動をしても)笑いたがる人々が生まれてくるのは致し方ないところ(そこには言いたいこともあるけどもさ)。ともあれ今回も、動きも発話もエキセントリックにならざるを得ない沼田の言動で観客は大いにウケるわけですが、そこでは「身体障害の不自由さゆえに妙な行動や発話をしている人を皆が笑う」という、意地の悪い構図が生じてもいるわけです。小松和重による沼田のオーバーな挙止動作はややクドい感もあって、ストーリーを滑らかに追うためには雑音でもあるのですが、彼がそのクドさで笑いを取り続けるほどにその空間が意地悪さを増してもいくのです。


蕎麦屋を切り盛りするサチコの日常性と、薄皮一枚下にある後ろめたさ、それにシャブが破壊していく平穏。サチコに噛み付いてびっこにさせた犬の飼い主から多額の慰謝料を受け、それを食い潰しながら生きる父・三千男(松尾)、夫・三千男の父親と不倫関係になり駆け落ちしていた出戻りのれい子(加納ジュンコ)それぞれの抱える後ろめたさ、そしてサチコ自身も有料エロサイトを見ているうちに慰謝料を使い込み、自分がちゃんと生きれば自分の葬式で皆は「正しく泣いてくれる」のかと、爆発できない鬱屈を溜めている。

痴漢で服役した過去を持つヅケヤマ(皆川猿時)が、その履歴ゆえに敏感な観察眼で時折サチコに向ける指摘は、彼女のささやかな八方美人性を暴露します。また、三千男が娘・サチコに向かって「(いい加減びっこの真似やめて)普通に歩いてもいいんだぞ。父さん、体裁悪いことないぞ」と呟くシーンには、他所の金を食い潰して生きることへの慢性的なバツの悪さが滲み出ている。これらが描くのは、触れなければそれなりに忘れていられるような、日常の中に織り込まれている後ろめたさ。表に晒してみたとき、それらの積み重ねは人を鬱々とさせるに充分なものであるのでしょう。

身体障害者の扱い方や、騒がしいシャブのパートとは対照的なこうした日常性の中の細かな暗さはこの芝居のトーンを語る上で重要で、その視線の繊細さもまた松尾スズキの演劇を良質たらしめている大事な要素であるかと。一方で、シャブパートとの接続は今回、いくらか滑らかでないようにも感じられました。


テレビのニュースで、某国(劇中では明示されていますが)からのミサイルが日本の地方都市を襲い、最後の一発が東京へ向かっている、との速報。それが実はニュースではなく…、というラストシーン。そこまで極端な宣伝はないだろうという展開なのですが、あれは先の衆議院選で実際に某党が作って流していた映像のパロディなのですよね。某党は劇中、あからさまにパロディ的な変名で描かれますが、彼らが実際に行なっていた宣伝活動が舞台にかけられると創作的なほど現実から遊離しているようにも感じられてしまうわけです。そしてまた、それがラストシーン最大の肩透かしとなることで、ある種のカタルシスとして終わらずに、続いてしまう日常(周囲は明らかに非日常的な凄惨現場ですが)。この状況で日常が続いてしまうことは、残酷さと対峙することでもあるし、けれど希望もあるといえばある、のでしょうね。
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