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小ネタ of the Dead

*歌舞伎座さよなら公演 昼の部『大江戸りびんぐでっど』 歌舞伎座 (2009.12.3)


台詞回しにちりばめた小ネタと、演技の落差ないしは大仰さ。
宮藤官九郎がマスに愛されたのは、そうした今日の小劇場演劇的ともいえる特徴を、テレビというメジャーカルチャーに織り込むことに成功したためでした。その象徴がジャニーズ勢と組んだ『池袋ウエストゲートパーク』『木更津キャッツアイ』『タイガー&ドラゴン』等のドラマだったわけで、そこでは“今時”な日常風の世界の中で、小ネタを駆使しながら日常をズラす笑いと立ち居振る舞いを体現していました。それらは、確実に2000年代のテレビドラマを充実させたもののひとつではあったでしょう。


小劇場的な小ネタは性質上、往々にして際物的な要素が強くて、それゆえ現代の「日常」的空気感の中でこそ効果的に映えるものです。「近世」を舞台にして台詞回しに制約を設ける歌舞伎の場合、小劇場的小ネタ感をそのまま移植すると、少なからぬ違和感が生じる。クドカン初歌舞伎の第一印象はその違和感でした。

第一場の、くさや売りのシーンから多用される小ネタや台詞のトーンの切り替えはクドカン的、なのですがそもそもそれが笑いになるのは「日常」との落差があってこそ。現代劇であれば、身振りや話し方そのものが「日常」をあらわすため、小ネタを織り込むことは比較的容易です。
しかし、冒頭から歌舞伎の世話物言葉とギャグと現代的口調の台詞がミックスされたやりとり(あと落語からの引用もごたごたと)が続くと、物語のトーンの落ち着きどころがなかなかつかめないため、ギャグがギャグとして、小ネタが小ネタとして活きてこないのではないかと。平常状態との落差こそが笑いなので、まずその平常を観る側に前提させた方が良いだろうと思うのですが、すべてがバタついた印象になってしまう結果、その落差を味わうことがなかなかできませんでした。

宮藤官九郎が歌舞伎を作・演出という謳い文句で期待値が上がるだけに、始めからカマしてゆきたい送り手の気持ちはわかりますが、冒頭の場面はあまり弾けずに始めて空気を落ち着かせた方が、後の笑いにとっても有効ではなかったかなあ。とりわけ「りびんぐでっど」の集団が舞台上に出てきて以降の画面は面白いので、彼らの異様な存在感を際立たせるためにも、導入は普通でよかったのでは。

あるいは、台詞に半端な制約を設けないで、すべてクドカンの書きやすい言い回しで脚本を作ってしまってもよかったかもしれません。彼の映画『真夜中の弥次さん喜多さん』は時代設定と台詞や風俗の乖離を気にしないことが成功だったわけですし(その志向が妙な時代劇映画を量産することにもなっているけれど)、笑わせたい部分と台詞回しへの気遣いとが『大江戸~』では今ひとつうまく噛み合ってないように思われます。その点、野田秀樹の『研辰の討たれ』は、台詞回しの制約をうまく回避しつつ作劇していたのですね。昨年の『愛陀姫』はその制約に絡めとられていた感がありますが。


話が落ち着く中盤の「はけん屋」以降、ゾンビを人々が「活用」するようになって話は面白みを増してきます。とはいえ、おそらく宮藤官九郎という人は、入り組んだ重いテーマ性を鋭く突きつける作家ではないように思います。どちらかといえばシンプルな話を紡ぐ人なのではないかと。

彼がトリッキーに見えるのは、今風の感覚をあくまで小ネタレベルでちりばめるゆえで、それは充分に演劇としての人気を成りたたせる武器なのですが、先に言ったようにその「今時」感に制約がある場合、話の骨組みが前に出て来ざるを得ない。その骨組みが思いの外あっさりしていて、今日の若手現代劇作家の話としてはいささか食い足りなさも覚えました。


半助(市川染五郎)が生きた人間なのかゾンビなのか、あるいは生きていた時とゾンビすなわち屍になってからと、どちらが「人間らしく」活き活きとしているのか、という問いが終盤のテーマになってくるわけですが、素朴なストーリーの骨組みが目立つぶん、話の回収されなさが浮き上がってしまうような。ゾンビの性質にまつわる劇中のもろもろの不整合が説明されてないし。そういう回収不足などどうでもよくなるほどのインパクトを突きつけることがクドカンにできないはずはないのですが、歌舞伎というフォーマットに寄り添おうとした結果なのか、演出者の特異性が今ひとつ活かせていなかったかもしれません。舞台絵にしりあがり寿、衣装に伊賀大介、音楽に向井秀徳を配した割に、若い世代の新鮮さが見えないのが惜しい。


とはいうものの、やはりクドカンの試行錯誤がある程度まで実を結んでいるのも確か。坂東彌十郎演じる奉行は、官職としての固さとクドカン的落差の笑いをうまく体現していて(彼がいちばんよかったかも)、ほんのり古田新太風味も垣間見えていたし、このチームにもっと時間をかけて宮藤スタイルを浸透させれば、それからクドカン本人にしっかり時間をとって作劇してもらえば、整理されたハイレベルのものが出来上がりそうな気はします。そういう意味で言えば準備期間が短かったのかな。クドカンはもっとうまく順応できるはずだし、もっときちんと遊べるはず。余裕あるスケジュールで、第二作が実現するといいですね。


あとゾンビの人材派遣を行なう「はけん屋」については、今時らしいキーワードゆえ風刺が期待されるかもしれませんが、そういうものではないです。「派遣切り」がテーマに入っている、と言っていた人もいましたが、あくまで今日的な言葉として入れ込んでいるだけなので、そこに社会批評を期待するのは作者の本意ではないと思います。少なくとも派遣「切り」の切実さは扱われていないように思うし。派遣という形態を持ち出してきて遊んでいるだけなので、そこは時評だと思って観ないように、軽く受けとるのが宜しいかと。
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