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馬を呑む

*藤山新太郎手妻公演「元禄の幻術」 日本橋劇場 (2010.2.9)


 公演タイトルの「手妻」っていうのは、まあ手品という意味で、江戸時代以来の手品をやりますという興業なんですが、なにせ今回の呼び物は「生きた馬を呑んでみせます」という「呑馬術」です。なんだそれ。

 チラシに載っている「舞台に生きた馬一頭を挙げ、馬の顔をチューインガムのように伸ばして、徐々に呑み込んでゆきます」という説明書きは、説明になっているというかなにひとつわからないというか。ともあれチラシとしての効用は充分だと思います。己のことを知らない他者に向けて、なにかひっかかりをつくるのがチラシの大きな役割ですので。


 メインを務める藤山新太郎は、近世以来の古典奇術を得意にしているマジシャンですが、彼の一座はこの手妻興業を持ち芸にすることで、「日本古来の伝統芸の継承者」という位置も確保するわけで、マジシャンシーン(には自分はまったく明るくないですが)における差別化という意味では手妻を強調する戦略というのは正解でしょう。
古典芸能の要素が入ることで、通常のマジシャンとは半分違う土俵で戦うことができる。呼び物である「呑馬術」からして、元禄時代の見世物である、っていうことに価値が見いだせるからあのハッタリが成立するわけで。


 ええ、呑馬術に関しては、ありていにいえばハッタリなんです。といっても、そもそもマジシャンとしてのスキルは持っている人たちであって、呑馬術以外はマジシャンもしくは職人としての腕を存分に見せつけるものだったのですが。
 ともあれ、古典芸能という付加価値を伴うことで、「こんな手品ができます」以上の「奥行き」を感じさせてくれることは確かです。「伝統」というのは実態が見えないゆえにこそ、観客側のイマジネーションを膨張させてくれる装置になりうるわけです。


 そういう「歴史」と、手品師としての彼らのテクニックとを同時に考えるうえで興味深いのが、ラストに演った「一里四方取寄術」。会場(水天宮前)の一里四方であれば、観客の要求した物品をなんでも取り寄せて、舞台上に置かれた空箱から出してみせます、というもの。
 これは実は手品の仕掛けとしては、空のはずの箱から物品を出す、ということの技術があればいいわけです(それだけだから簡単なこと、といってるわけじゃないですよ)。で、あとはそこからいかに「観客の要望通り」の品物を取寄せているように見せるかという話術と段取りの芸になってくるんですね。


 観客の要望をさも受けたように見せて、ひとつひとつの台詞で「取り寄せ」る品物を限定する方向に引っ張ってゆく(そこには明らかに観客に紛れたサ●ラの存在もあるわけですが)。←こういう書き方良くないですね。というかご本人に確認したところ、サクラなんてのは事実ですらなかった。失礼致しました(追記)。
 観客の何人かに紙を渡して、箱から出してほしい品物を「自由に」書かせ、その紙をシャッフルしたりして、ランダムに混ぜ(るように見せ)、さらにそれらをその紙に書かれた品物をひとつひとつ読み上げ(てるように見せ)る、という流れの中で観客をその一連の手順のうちに参加、加担させてゆきます。観客が参加している、という土壌と文脈を作ったうえで「空のはずの箱から物品を出す」というマジックを披露するから、クライマックスの盛り上がりを用意することができるわけです。これはもう正味のマジックテクニックだけの勝負ではなくて、観客を取り込んでいかにストーリーを周到に紡いでゆくか、という作劇の問題なんですね。そのことの面白さを見せてくれるという点で、藤山新太郎と弟子の晃太郎の掛け合いは非常に興味深かった。マジシャンにトークスキルってほんと大事。


 この術は明治15年に名古屋で演じられて大当たりをとった、とのことです。つまり明治期の手妻師はすでに、このクライマックスに向けての作劇法を作り上げていた、ということ。喋りの段取りに自覚的であらねばならないし、初見の人々をたらし込んでゆかねばならない。実演を見ながら、100年前の芸人のそのような図を想起することはやはり心躍ることではあって、こういうふうに観客が過去に思いを馳せることができるというのがすなわち手妻という「歴史」を手札にすることの強みです。


 正味の奇術テクニックに、観衆を加担させるストーリー作りとさらには「伝統」という装置とがまぶされて、小品ながら奥行きを持ったものに成ってゆく。マジックというものの要素とその組立て方のエッセンスを気持ちよく垣間見せてくれた演し物であったように思います。


 それから一応、「呑馬術」にももう少し触れておきます。
 まあ当たり前ですが、「本当に」馬を呑んでいるわけではありません。それは見ている誰の目にも明らかだし、こと完成度に関してはこの演し物だけどう見ても低い。けれど、第一にこれは本興行自体に目を留らせるためのカマシであること。見に来れば、彼らの実際的なテクニックや魅力はきちんと目にして帰ることができる。
それに加えて、呑馬術は完成度より何より、元禄以来途絶えていたものの300年ぶりの復活、という古典復興要素があって、それはそれで正当化として機能しています。どんなものだったのか試しに実演してみる、というのは意味のある試みでしょうから。あ、でもあのやり方を精緻にしていけば、もっと呑んでるっぽく見えるとは思います。


 カマシとしての「呑馬術」が入口となって、入ってみたらば「呑馬術」はともかく、全体としてはそれなりのマジシャンスキルに、人たらし型作劇術と「伝統」というイメージ喚起装置が絡みつくさまが見られる。ハッタリに引き寄せられたうえで、損した気分にならない見世物小屋だったといえるでしょう。というか、そういう立ち位置の「呑馬術」自体が非常にチャーミングなのでした。
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