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「ヒップホップの初期衝動」

*コクーン歌舞伎『佐倉義民傳』 シアターコクーン (2010.6.17)


日本語ラップをいまだに「アメリカかぶれ」という嘲笑で片付けようとする人は多くて、それはそう簡単に逃れられるものではないと思うのですが。

おそらく、嘲笑で終わらせたい人々には、端からその文化を理解しようという姿勢すらないわけで、それを説得するのは難しいし、説得する必要がないと言えばそうかもしれない。けれど一方で、耳慣れない人にとっては一聴してすんなり通る音楽ではない、ということも多々あるわけで、そういう人たちに馴染んでもらうにはある種の説得力を獲得する必要はあるのかなあと(個人的には、「わかる人だけわかればいい」のみで内部完結するのがあまり好みではない、というのもあります)。


今回の『佐倉義民傳』には、義太夫の代わりにラップが用いられています。歌舞伎の義太夫語りのように上手に居て説明や台詞を適宜施してゆくのと異なり、このラップは農民たちが一人称となって苛政、窮状を訴える。『佐倉義民傳』にラップが載ることは、たしかに見慣れないものではあります。けれども、苛政による困窮に苦しむ農民の声が直球な言葉で、それも集団の声として表現されると、形式云々を超えた説得力が生まれ得る。ラップに普段馴染まない人々も乗せ得る。そんな可能性を示してくれた演出であったといえるでしょう。日本語ラップの採用、そしてそれを担当したいとうせいこうの起用は大成功だったと思います。

なにより、ラップという方法が、「訴える」ということに非常に向いた表現であったことを再認識させられます。この作品で描かれる問題意識は“Fight the Power”と相通じるものなわけで、「かぶれ」と揶揄される人間だって、アメリカのラップのスタイルのみならずそういう理念に共鳴したりしていることも多いはず。日本ではラップとして訴えるだけの惨状とかゲットーとかがない、みたいなことも言われたりしましたが、それこそ一面的な日本理解、アメリカ理解。『佐倉義民傳』というストーリーの持つ、抑圧され追いつめられる民衆というテーマ性が現代と重ね合わせられたりしているわけで、そこに日本語ラップによる「訴え」、優れたポエジーが生まれ得る土壌は確実にある。それを本作は見せています。


終盤のリリックでは佐倉の窮状と今日的な世界情勢とが重ねられます。もちろんこれは、飛躍です。天安門は佐倉ではない。9.11以降に起きていることは佐倉ではない。けれど、ここで重要なのは、各事象の違いを精査することではありません。まずは、「追いつめられる人間」について、自覚的になること。それを喚起できるのがラップという方法の強さだと思いますし、その訴求力をヒップホップシーンの外、より普遍的な場に向けて放出できたことは何より素晴らしい成果でした。これは日本語でラップすることの可能性を拡張するものだったと思いますし、この種の拡張は狭義の「ヒップホップ」にこだわらない場からの発信だからこそなしえたものかもしれません。いとうせいこう&駒木根隆介+水澤紳吾(映画『SR サイタマノラッパー』のIKKUとTOM)に大きな賛辞を。


今回の『佐倉義民傳』は日本語ラップの可能性を拡張したのと同時に、「コクーン歌舞伎」というものの可能性も広げたと思います。今回はコクーン歌舞伎の中では特に、意図的に笑わそうとする場面の少ない(あっても小さい)作品だったのではないでしょうか。
わかりやすく(比較的現代的なかたちで)笑わせるという要素は中村屋のカンパニーが持つひとつの特徴で、それは一定の観客層を引き寄せるひとつの要素ではありました。同時にそれが続くと「中村勘三郎=笑わせてくれる」という図式が少なからず観客に内面化されるという側面も出てくる。そうなると観客に「笑い待ち」の状況が生まれて、笑わせる意図のないところで客席が先取りして笑いの波を起こし、ストーリー展開が落ち着かないという状況が生じたりします。客席の混沌自体も歌舞伎の魅力ではあるのですが、ストーリーの切実さという点でもったいなく思えることもある。今回、「笑い待ち」に向かないコクーン歌舞伎がある、ということを提示できたのは大きかったのではないかと思います。笑いが先行してストーリーが落ち着かない、というのを少し昨年のコクーン歌舞伎で感じてもいましたので。


それから、コクーン歌舞伎といえば『三人吉三』に代表されるような視覚的な格好よさが連想されることも多いかと思いますが、『佐倉義民傳』はそもそも民衆の主張の強さを際立たせる演目なので、そうした「華」を先行させる演目でもない。しかしその題材でも、例年のコクーン歌舞伎に遜色ないスリリングさを達成していました。新脚本とラップによる効果とは、緊張感の持続という意味でも素晴らしい効果を上げていました。宗吾の、あるいは困窮民の主張といっても、芝居自体が退屈になってしまったとすれば、そのメッセージの訴求力は小さくなってしまうので(一昨年に歌舞伎座で松本幸四郎が宗吾を演じた際のパンフコメントで、「つまらない芝居を面白く地味な芝居を派手に」見せるのが役者の務めだと語っていて、演じる方としても地味な芝居に見えがちだという自覚があるのだなあと思ったりしました)。


なにぶん、コクーン歌舞伎としてはひとつ新しい実験段階ではあるかと思います。先の日本語ラップの採用にしても、「大失敗だ」と判定する人がいても不思議ではありません。やはり初見の視点から、異物として捉えられることは大いにあるでしょう。ただ、ある程度コクーン歌舞伎の輪郭や皆が期待するものが定着してきている時期に新たな方向性を試し、初物の要素を大きくフィーチャーするというこのカンパニーの姿勢には頼もしさを感じました。おなじみの手札のみで固定化しない、そのスタンスがある限り、やっぱり彼らのことは信頼せざるをえないのです。
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