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~演劇とアイドルと何かと~

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アイドル演劇と日常性

*劇団ゲキハロ『三億円少女』(須藤茉麻ver.) サンシャイン劇場 (2010.9.26)


 たとえば歌舞伎の観客は、舞台上の役者に三つの位相を重ねて観ます。

 「花川戸助六」、を演じる「成田屋の11代目市川海老蔵」、であるところの「堀越孝俊」というように。
劇中、彼は絶対的に『助六由縁江戸桜』の登場人物・助六でのみあるわけではありません。その背後に常に海老蔵という役者が意識されるから、登場人物の台詞や衣装、小道具等には意識的に役者を示す記号が配置されるし、劇中唐突に「海老蔵が新婚である」というエピソードが挿入されてもそれは自然に受け入れられる。そうして劇内役柄ではなく役者を愛でる瞬間をつくり、またすぐに劇中世界に戻ってゆく。歌舞伎に関してしばしば用いられてきた「役者本位」という言葉はそういう性質を説明するものでもあります(「助六」の場合は、加えて「助六、実は曽我五郎時致」という位相も加わるけれどそれはまた別として)。

2010_9_26_gekiharo_sanokuen

 「○○役であるところの誰々」という視点が不可欠であるという点においては、アイドル演劇もまた然りです。なによりそのアイドルが舞台上にいることで、その演劇は成立している。観る側は劇中世界とともに、それを演じているアイドル(ここではBerryz工房)の、「俳優」としてではなく「アイドル」としての魅力を常に意識する。これを受けいれなければ、入り込んでいきにくいのがこのジャンルの特徴でもあります。カーテンコールのラストに主演のBerryz工房7人のみが残り、「Berryz工房でした!」と言って締め括るそのやり方は、『三億円少女』がアイドル演劇であることをはっきりと表明してもいます。


 嗣永桃子が劇中、ブリっ子的に振舞って見せるのは劇内世界の役柄ではなく、彼女のアイドルとしてのパーソナリティと深く関わるものです。さらに言えば、彼女のアイドル活動における、半ばギャグ化した「ブリっ子」性をあらかじめ知っていてこそ味わえる。そこで優先されるのは、「劇」ではなく「Berryz工房の嗣永桃子」です。

 あるいはこの日の主演・須藤茉麻にひっかけた「まさか、まーさか(茉麻か)」というフレーズ、あるいは菅谷梨沙子がトーストをくわえ、走って登校する際、客席に振り返って「えっへへ」と笑いかけるシーン。そうした、「劇」ではなく「タレント」を愛でるためのポイントが随所にちりばめられる。「俳優本位」のアイドル演劇としては正しいかたちではあるといえましょう(余談だけれども、今回の役柄日替わりというアイデアは、誰々が○○の役をやったら…という仮定が常に喚起される歌舞伎の在り方にも近いよなあ。あと、日替わり主役という趣向に合わせて、Berryzのメンバーの顔を「モンタージュ」したと思われるポスターも気が利いている)。


 では、先に挙げた歌舞伎との決定的な違いはといえば、まずそこに演技、「芸」への信頼が託されているか否かということでしょう。歌舞伎俳優は何にもせよ、歌舞伎の舞台に立つことが本業であって、歌舞伎の演目において役柄を演じる、その「芸」は圧倒的に信用されています。
 また伝統芸能として継承されているという事実が、芸の洗練を想起させる役割も果たす。だから歌舞伎という舞台演劇自体が「芸術」性の高いものとして受け止められるし、歌舞伎を観たことのない人々に対してさえ、優れた古典芸術なのだろうという先入観を植え付けることができる。


 アイドル演劇は、言ってしまえば「余技」です。舞台俳優として一線級の芸が求められてはいないし、多くの場合、そうした芸を追求するつくりにはなっていない。もちろん、だから見くびっていいわけでも「レベルが低い」という短絡的な判断をしていいわけでもなく、アイドルである彼ら彼女らは、自らのアイドル性のようなものを優れた水準で見せつけなければならない。
 また、劇が破綻せぬよう芝居に対する「意識の高さ」も見せなければならない。この、「意識の高さを見せる」というのは案外大事な要素です。つまり、歌ものアイドルを本業とするBerryz工房の○○が慣れない芝居に対しても真剣に打ち込んでいる、という姿自体が、「ひたむきなアイドル」としてのチャームとなるためです。アイドル演劇はまず、こうした基準で観客をアトラクトすればいい。


 『三億円少女』も、その基準を保持しながらつくられていたと思います。けれども、率直に言って、たとえば過去にここでとりあげたAKB歌劇団など比して、面白さの持続力は弱いように感じました。おそらくそれは、1.結局「演劇」であること、2.虚構性の度合い、というポイントによるのではないかと。


 劇はいわゆる「三億円事件」の起きた42年前からタイムスリップしてきたと思しき少女をめぐって、現在と42年前の世界とを往還しながら進んでゆきます。というとSF性が強いようにも感じられますが、展開されるのは立川の老舗旅館を舞台にした一般人たちの日常的なやりとり。連続テレビ小説にも近いその舞台設定は、現実世界と地続きであるといえます。

 日常性を舞台にのせる場合、俳優の演技が肝要になります。演技で日常的(に見える)世界観をつくってしまわないと、ともすれば「素」の人間がだらだらと「素」の日常会話をしているものになってしまう。とりわけ、アイドルとしてのチャームを見せつけることが必要なアイドル演劇の場合、演技のテンポによる推進力を持続しないと、劇内世界から逸脱したまま時間が過ぎてしまいます。これでは演劇としての興味の持続には乏しくなってしまう。やはり「演劇」ではあるので、劇世界のつくり込みの薄さを垣間見せつつの2時間は少々長い。その長さを気にしないためには、観る側がBerryz工房に強い愛着を持つことが必須になるでしょう。つまり一見さんを巻き込めるかという点には疑問符のつく、内部に閉じた性質の演劇ではある。


 たとえばジャニーズの舞台は少なからず「ショービジネス」の世界が舞台となり、また身体的パフォーマンスや歌劇の要素が強いため、日常性の演劇とはいささか事情が違う。上記したAKB歌劇団にしても、一見等身大にみえる女子学生役が割り振られてはいますが、やはり「AKB48」としてのレパートリー曲を随所に披露する劇でした。さらに秋元才加、宮澤佐江という、優れた「男役」の存在は劇を自然と虚構性の高いものにしてくれました。
 こうした虚構性の強い舞台は劇内世界が日常と大きく異なるという線引きをきっぱりしてくれるので、「アイドル」のチャームを見せる場を見せても、それが「素」と地続きになりにくいように思います。これはアイドルとしての魅力も、演劇としての魅力(演劇的なリアリティ)も受容しやすいものにしてくれるような(それをいえば現代の我々が歌舞伎を観る、というのもきわめて虚構性の強い演劇を観ていることになるわけですね)。それはまた、殊更ファンではない層にも「エンターテインメント」としての魅力を伝えることが容易になるのではないかと。


 劇団「大人の麦茶」による脚本・演出は、非常にわかりやすくなされていたと思います。主人公の「三億円少女」依子が三億円事件のために体を張った理由、また42年前からタイムスリップしてきたらしき依子の真の経緯が明らかになってゆく畳み掛けは力強さも感じます。最終盤に残される余韻は薄いものではない。不良少女・明美を演じた熊井友理奈の、俳優としての安定感も素晴らしい。とるべき要素は決して少なくありません。それだけに、序盤~中盤でもっとドラマとしての推進力が強ければバランスがよかったのに、と思います。序盤~中盤の弱さゆえ、ラストに来て幾分、感動の帳尻を合わせるかのように見えてしまいました。


 当時の立川アメリカ空軍基地、反体制をうたう青臭い不良青年、そして三億円事件の実行犯が少女であった、という設定。面白く転がりそうな要素を揃えた着眼点も良い。時間をかけて積み上げれば堅実な舞台になる脚本、演出なのでしょう。
 舞台演劇を本業としない彼女らにそうした堅実志向を押しつけるのは筋違いかもしれませんし、この場合堅実な芝居を目指すことがよい方向に向かうのかもわかりません。演技のあやうさとアイドルとして「ほつれ」という魅力を垣間見せることは表裏一体ですし。しかしまた、熊井友理奈の安定した演技を見るにつけ、少々巧くなったところでアイドル性というのは薄れるものでもないのだよな、ということも確認しました。

 評判も良いようですし、今回の『三億円少女』はあくまで初演ととらえ、定期的に再演してみては、と思います。アイドルと親和性の高い歌劇でもなく虚構性の強い世界観でもない、この日常的世界観を演者が洗練させることで、アイドルを見ない外部層にも届かせうるのか。それが達成されるならば、「卒業」後しばしば舞台演劇に活動の場を求めるハロプロ全体にとっても新たな回路の開拓となるのではないでしょうか。
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