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他愛なさの後ろ側

*らくだ工務店『動かない生き物』 赤坂RED/THEATER (2010.10.25)


中学生のとき。
給食の時間に、文脈は覚えていませんが「身内が死ぬ」というようなことに話題が及びました。特定の人物の話ではなく漠然としたレベルで、皆これといって考えもなしに、笑い混じりに。そこに同じ班の女の子がふと、自身の弟を病気で亡くしたことを呟きました。バツの悪さと申し訳なさと、その申し訳なさを感じることへのかすかな釈然としなさで二の句が継げなくなって、座が沈黙したところまでは覚えています。

じゃれ合うような会話を交わす際、なかなかそういう可能性にまでは配慮できなくて、また往々にして配慮のしようもなくて、あるいは己の心情に痛いフレーズが耳に入っても当座はスルーしてしまうことも多くて。他愛ない会話はけっこうそういう裏面を含みつつ流れていきます。
そんな気まずさや相手をわかってあげられないこと、あるいは相手を傷つけているかもしれないことへの気付けなさ。本作はそういうすれ違いの局面を凝縮させた芝居になっています。
2010_10_25_rakudakoumuten_1

動物園の飼育員室。感謝祭を目前に控えてせわしなく準備に追われる飼育員たち。ここしばらく、感謝祭の呼び物となるはずの象のカズオが舎から出てこず、このままでは企画が立ち行かなくなるという焦りにうっすらと包まれている。飼育員それぞれが家庭などに悩みや大きなイベントを抱えつつ、準備に明け暮れる中、園内手伝いをするボランティアの女性が「動物の気持ちがわかる」と言い出す。


ジャンルを表す表現として「静かな演劇」という言葉がありますがらくだ工務店のこの芝居もまた、わかりやすく超常的な設定や急激な展開で勝負するタイプのものではありません。日常風景を切り取った、普通のやりとりで進んでゆく穏やかな演劇です。しかし、先にふれたようにそういう日常の関わり合いのうちに潜んでいる小さな傷やズレを、静かな展開だからこそ落ち着いて念入りに見せてくれる。もっといえば、他愛なく流れていく日常が孕んでいるささくれに敏感でないと、到底こうした演劇は作れません。


軽い世間話として相手の家族のことを聞いたつもりが、余計な傷や目下抱えている問題を明るみにする結果になってしまい、互いに相手の次のリアクションを測りながら変に気遣ってしまう気まずさ。そこにあらわれた、文脈を知らない第三者の発話によってさらにバツの悪さが広がるも、誰を責めようもないし責めたところで何が解決するでもない。決着もなく、晴れない気分を抱えたままそれでも日常は流れ、傷も気まずさもそのまま奥にしまわれる。たとえばそんな情景。
飼育担当していたポニーの子が死んでしまったのを目の当たりにして、それをまもなく生れてくる自分の子に重ねてしまい落ち込んでいる飼育員。そのタイミングで身重の妻が飼育室に訪問に来るシーンところから始まる、意図のすれ違いの連続や、他者が目撃しなくていいような家庭内の緊張に一同が立ち合ってしまう間の悪さ。
大きな修羅場でもなく、それでも確実に各々が居づらさを引き受けざるを得ない、そんなシーンが巧みに作られ、つらなってゆく。


他者の有する文脈や意図を汲むことの困難が表現される中で特徴的な存在となるのが、「動物の気持ちがわかる」と言うボランティアの和田(麻乃佳世)。もちろんのこと一方で飼育員たちに怪訝な顔をされつつも、象のカズオが抱える問題の解決を彼女に託そうかと考える若い飼育員もいて、和田の存在は飼育員室に波風を起こし出す。和田自身も、彼女を否定しようとする飼育員も真摯だからこそ、両者の発想の断絶は深いし相互理解は決してできない。終盤、飼育員・玉置(古川悦史)が和田にぶつける感情がどうしようもなく昂るのは、彼にとって何より大切で、それなのに意思の疎通のきかない「動かない生き物」の存在があるから。和田が「動物の気持ちがわかる」と言い続けることの内にある、ある種の不遜さに対して、「動かない生き物」は対置的で、象徴的なエピソードとなっています(それ自体はアンサーとかクリティカルな指摘とかという、きれいなものではないけれど)。


アクロバティックな展開もない、特異なキャラクターや設定もないこのタイプの演劇は、俳優の確実な力が求められるものでもあります。その点、日常的でささやかな齟齬や笑いを丁度良いリアリティ具合、デフォルメ具合で演じていた役者陣は本当に素晴らしい。外れなく的確な温度で演技される飼育員たちは普通の人々なのにどうにも魅力的で、また会いに行きたくなる。映像作品のように具象的なセットも、この種の日常的リアリティとは相性がよくて、あえて具体的に作り込まれていることの有機性が感じられます。総体として巧く手堅い、力のある座組みでした。「静か」な演劇が、なお生の演劇であることの意義を強く印象づけるには、彼ら彼女らのような巧さがきっと必要。


この作品は、他者へのわからなさ、意図の汲めなさを静かに見つめるものですが、わからないとは○○である、というようにその先を提示したり結論づけたりするものではありません。ただ如何ともしようがない、という状況がごろんと転がっている、そのこと自体の空気感こそ肝。

和田に対する玉置の一喝は、不遜さへの単純な説教として収束するわけではありません。その後も和田は大人しくなるでもなく、相変わらず動物の気持ちを「理解」して飼育員に報告しにやって来る。飼育員たちは腹の中に一言抱えながらも、そんな和田にやわらかく接して応じる。人の変わらなさなんてそんなものだし、意思の疎通が十全でなく己の意図を引っ込めながら相手を受け止めることも、決して悲観的な状態ではないのだと思える穏やかなラストは優しくて、好感の持てるものでした。
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