もう安心 

~演劇とアイドルと何かと~

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「スター」であることの信頼

*大人計画『母を逃がす』 本多劇場 (2010.12.10)


 昨日今日に始まったことではありませんが、大人計画という劇団はすでにスター軍団になっています。松尾スズキや宮藤官九郎といった作・演出を兼ねる団員は言うに及ばず、阿部サダヲをはじめとする俳優たちも小劇場系の劇団員というような枠からは大きくはみ出している。大人計画という集団自体が小劇場系の観客層にもそれを超えたマスにも信頼されているゆえの、稀有な環境が勝ちとられています。

2010_12_10_otonakeikaku_1


 阿部に対する若干の「笑い待ち」のような客席の反応の敏感さ(せっかちさ)に彼らが「スターであること」を垣間見ることができますが、かといって「スターである彼ら」の身体そのもののチャームに大きく傾斜する笑いのとり方は当然していないし、また観客も「スターである彼ら」を見ることにのみ寄りかかってはいない。
 冒頭の「事件」の被害報告を巡るやりとりはストーリーの進展よりもギャグの連続に比重の大きい場面だし客席の反応もいいのですが、その中にある「男性俳優同士がキスをする」というシチュエーション自体には観客はほとんど反応していません。「アイドル」を含むスターの身体の魅力を第一義として成立するパフォーマンスにおいては、往々にして演者の、特に男性同士の性的なやりとりそれ自体が(ヘテロセクシャルを前提とした視線によって?)笑いや嬌声を誘うものとして存在します。観る側がそこに反応しないのは、大人計画に託されている信頼、期待の基盤がそもそも「スター」的ななにかとは違うところにあったためで、誤解を恐れずに言えば、男同士のキスという“策のない”笑わせ方などに期待してはいない(といって、だから「スターシステム」や「アイドル」がレベル低いみたいな発想が生まれるならば、それには非常に抗いたいのだけれども!)。


 しかしまた一方で、彼らがある程度「スター」として存在するからこそ、たとえば阿部のギャグが幾分長めに独り歩きするような場面も温かく受け入れられたりもする。そしてなにより、彼らが「スター」であるという現状認識を踏まえたうえでの自己提示が、この芝居ではなされているのではないかと。もっとも象徴的なのは終演直後に始まる“カーテンコールショー”。単純に発想としても面白いと思うのですが、俳優ひとりひとりをコメント付きで紹介することそのものを見世物として成り立たせること、またラストに紹介される松尾スズキの舞台上での遊び方等は、劇団が「スター」であればこそその場が楽しいものになるという余裕を感じさせるものでした。


 昨年の公演『サッちゃんの明日』では、「舞台に『日常風景として障害者を登場させる』ことで“これこそ平等である”的な評価を受けてもいる」という大人計画自身の現状を自己言及的に舞台にうつし、登場人物に「そんなの二重の偽善みたいじゃないか」と言わせる印象的な場面がありました。大人計画という名前、評判の大きさを現状として踏まえたうえで、それについて劇団自身と評価する側との双方を批評するような姿勢が興味深かったのですが、今回はある種の「スター」となった自分たちの現状をフィードバックし、それを劇づくりに消化しているような印象を受けました。小劇場規模を守りながらも、そのキャパシティ以上の「名声」を獲得していることに、自覚的であらざるを得ない劇団ではあるのかなと。


 1999年初演の本作。東北にある、農業中心の閉鎖的なコミューン。コミューン創始者の孫で集団を統べる立場の“頭目”が成員全員から保険金を掛けられていることに絡んだかけひき、「敵の攻撃」に備えるために周囲を防壁で囲い、テレビひとつ代替することにも支障が出る閉鎖的コミューン、その閉じた生活空間の中での息詰まり感のあるセックスへの衝動や跡取りをつくることに対するプレッシャー。それらが成員をコミューンに吸引し、また抑圧する。


 笑いでばたつかせながら、観る者の日常とはリアリティの水準が大きく違う設定を飲み込ませてゆく手際はやはり見事。本来、笑わせる側の世界観に引き込まないと笑わせることはできないわけで、その意味ではテーマ設定のシリアスさや異質な世界観の提示と笑わせとは殺し合う要素ではないはず。笑いの作り方が不調に終わったならば、それが単にノイズとして残ってしまうのでしょうけれど。

 成員の少ないコミューン内で「女」が、「次世代を生むもの」として性欲の発露と不可分の視線で目され続けることの閉塞感。それにそのコミューン内で生きること自体のしんどさ、またうらはらにそこで生きていかねばならないならば「女」として良い立場を得る必要。それらを体現するのが、捨て子としてコミューンに拾われ育てられたトビラ(田村たがめ)です。
 頭目の妻(猫背椿)が“出産”を迎える際にトビラが叫ぶ、「産まれるな!産まれてきてもテレビもねえぞ!」という悲壮な言葉。あるいは一方で、終盤には頭目とセックスしながら「(頭目の子どもを産むから)自分を頭目の妻にしてくれ」と頼む彼女の姿。トビラはコミューンの孕む暗さと、それでもそこで生きていくし日々は続いていくことを象徴する存在となっています。


 幾分雑に感じられるところもないではありません。そのためかラストの「そして生活は、続く」という言葉への繋がりが少し落ち着かなくも見えたような気はします。しかしやはり、大人計画の作劇への信頼を見せてくれるに充分な舞台でしたし、また雑さや役者のキャラに委ねる類の笑いさえも堂々と提示しそれを成功させられるというのは、自身たちが「スター」であることを冷静に解釈した結果でもあるのでしょう。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://katzki.blog65.fc2.com/tb.php/76-00356a84
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。