もう安心 

~演劇とアイドルと何かと~

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

「ドキュメンタリーは嘘をつく」

*シベリア少女鉄道スピリッツ『もう一度、この手に』 王子小劇場 (2011.1.7)


 シベリア少女鉄道の舞台は、観客のテレビ的一般教養に支えられている側面があります。
 得意とするパターンとしてあるのが、劇の前半で展開されるドラマに伏線を仕込んで長いネタ振りにし、後半徐々にそのドラマのシチュエーションが、まったく性質の異なるテレビ番組や映画(それも皆がテレビの宣伝等でなんとなく知っているような)でルーティン的に行われている場面にオーバーラップしていくというもの。いわばパロディ的要素を持つコントなのですが、前半のドラマをきちんと作り込むことでそれ自体をシリアスな劇として成立させるから、ネタ振りのためのネタ振りに見えない(目的はあくまでネタ振りだったとしても)。丁寧な作劇にこそ唸るような伏線は宿されうるということを毎回、鮮やかに突きつけてくれます。これは、テレビのレギュラー番組等の制作テンポや放送尺では実現が困難な、小劇場演劇のペースでこそ作ることのできる贅沢なコントでしょう(どっちが上、とか言ってるんではなくて)。また、この相当に緻密で濃い頭脳労働の果てに作り上げるものは、徹底してメッセージを押しつけずバカな笑いに終始している。それゆえこれ見よがしのウィットに傾かない清々しさもこの劇団の特徴といえましょうか。以前にも書きましたがやっていることはとても知的で、メディアアート的ともいえるのですが。

2011_1_7_siberia_01


 告知のフライヤーに示唆されている通り、今作は短編を集めたオムニバスの体裁で進行します。上述したような、前半のシチュエーションが後半で位相の異なるネタ元へオーバーラップするという手法が、一篇10分ほどのショート・ショートで連なってゆく。
 オープニングを飾るのは、以前テレビ番組でも披露したことのある、「父の葬儀のために久しぶりに別荘に集まった息子たちが、父の財産が遺言によって妾腹の妹にまるまる託されていることを知って納得がいかず妹を交えて揉め始め身内同士の修羅場が生じるという状況が、フジテレビ『ごきげんよう』の番組進行とオーバーラップする」というネタ。キャストロールを挟んでのち、新作の短編が次々と上演されてゆく。どれも、前半のストーリー中に伏線を作って中盤以降にテレビ的ネタへ回収する、シベリア定番のスタイルであることに変わりはありません。

「刑務所内の喧嘩騒ぎに乗じて脱獄に成功し見知らぬ南の島まで流れ着いた死刑囚たち。その地の教会で亡霊の影におびえながら神父の話を聞いているという状況が、ある老舗クイズ番組の進行にオーバーラップする」

「スポ根ものがテレビでおなじみの○○にオーバーラップする」

 同一パターンが繰り返されるため、30分ほども経つと飽いてくる感じは否めませんし、次はどういうオチに回収するのか、と読みながら舞台を観る感覚にもなってしまう。けれど、今回はこうやってシベリアの基本構造を陳列する、というかたちでいいのかなー、と。


 思って観ていたのですが。
 それにしても気になるところが多過ぎる。毎回精緻なコントを支えているはずの役者陣の演技が荒い、それゆえドラマ進行のタイトさが失われていて、いつものシベリアに比して緊張感が著しく薄い。これでは予告されていた上演時間2時間は持たないのではないかと考えつつ観ていた頃、唐突にナレーションが入ります。

「オムニバス形式でお送りしているシベリア少女鉄道スピリッツ公演、開演から40分が経ちました」

 このナレーションが説明してゆく世界設定によって、不可解だった舞台上の諸々が説明され、ようやく観客は事態を飲み込みます。と同時に、やはり緻密なシベリア少女鉄道がそこにいることを思い知らされる。
 このナレーションは今回の公演「もう一度、この手に」を上演する劇団、シベリア少女鉄道スピリッツに寄り添い、彼らの葛藤を代弁する天の声として立ち回っています。ナレーターの存在によって、公演に挑むパフォーマーに密着して演者の心理を説明しながら彼らの挑戦を見届ける、というドキュメンタリー番組で既視感のある体裁を劇全体に持ち込んでいるわけです。すなわち、「『劇中世界を相対化してTV等のネタとオーバーラップさせる』という作風の劇団が本公演に至るその内側を、架空のドキュメンタリー番組の中で見つめている」という設定の、二段重ねのメタ構造なわけです。


 ところで、その劇団の姿やあゆみなどを劇の裏テーマとして重ねるというやり方は、時折みられるものです(最近取り上げたものでいうと「双数姉妹」の『20年目の正直』などもそれにあたるでしょう)。
 手法としては、演劇を行なう集団の姿を変形したドキュメンタリーにして、あるいは創作された設定を劇団のメタファーとしてなぞり、彼ら自身のありさまそのものをエンターテインメントにするもの。それはそれでもちろん、一定のカタルシスを想像しやすいものでもあります。しかしそこはシベリア少女鉄道、素直に「我々のあゆみ」などには持っていかない。


 役者一人一人についてクローズアップするようにナレーションが入り、それぞれの出自や本公演に関わる経緯、抱える問題についての葛藤が語られる。ドキュメンタリー番組で見たことがあるような、成員内の志向やモチベーションの噛み合わなさ、わかりあえなさを俯瞰視点から見届けるナレーターと観客(ナレーターは毛皮族の町田マリー)。そのナレーションが徐々に彼らの抱える葛藤の内容を大げさなものにしてゆきます。
 ある点を超えると、そのナレーションの中身は「どうみても嘘」なものになってゆく。しかし途中まで説明されてきた役者たちの設定は本当のことでもある。その実存はもちろん継続しながら、アナウンスされる「どうみても嘘」の設定も彼らは引き受けて演じる。「ばらばらのところからこの公演のために集まってきた彼らが互いの立場や仲違いを超えて団結し公演を成功させる」というドキュメンタリー番組にとって陳腐且つ「筋書きしやすい」ストーリーのパロディを、ばらばらのところからこの公演のために集まってきた彼らがこれ以上ない結束力と演出意図への把握力をもってパフォーマンスしているわけです。そしてまた「どうみても嘘」の部分のくだらな過ぎるギャグのおかげでこの知的な構想が全然鼻につかない。メタ的な構造がどうとかもっともらしく考えるだけ野暮に思える、力の抜ける笑いに埋め尽くされる。


 「どうみても嘘」な集団は最終的に仲違いも個人的な悩みも乗り越えて上演を成功に導く(というあえての陳腐な設定)わけですが、その「成功」の達成にもまた別のとあるゲームがオーバーラップする。いつものシベリア少女鉄道のスタイルというものを突き放して俯瞰しつつ、いつも以上にシベリア的な掛け合わせが詰め込まれています。


 こうなってくると、序盤にオムニバスで何本も見せることの効果も明確になる。つまり、いつものシベリアの作劇法を俯瞰してネタにするような本作は、ややもすればシベリアを知っている人のみに向けた内向きの芝居になりかねません。オムニバスで同一手法の短編を繰り返すことで、初めて観た観客にもまずシベリアのスタイルがどういうものであるかを理解させることができるわけです。オムニバス最初の数本は、初めての観客にまずその構成で唸ってもらうために、短いながらもきっちりと高水準でコントを仕上げている。このあたりも本当に丁寧。自己言及を前提にした作品であるのに、一見さんが観ても理解できる。この冷静なサービスは、内輪受けにならないために大切なこと。


 終盤の畳みかけの加速度をみる限り、一年前の公演で久々の肩慣らしを終えたシベリア少女鉄道は、完全にその姿を取り戻したように思います。作・演出の土屋亮一は近頃、テレビ等でも構成作家としてシベリア的手際を垣間見せている。彼らの活動が存続するためには勿論そうした外部仕事も喜ばしいことです。とはいえこの精緻な構造に裏打ちされたバカな笑いの実現は、やはり本公演でしかあり得ない。容易に多作できるようなスタイルではないのは百も承知ですが本公演をもう少し多く、と望みたいところです。
スポンサーサイト

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://katzki.blog65.fc2.com/tb.php/78-30233782
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。