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世界の終わりで祝福する身体

*ままごと『わが星』 三鷹市芸術文化センター星のホール (2011.4.19)


 観客席にぐるり取り囲まれた円形のパフォーマンス空間。暗闇の中で開演すると、演者の声だけが互いに囁き、そこに「何もない」ことを確認し合います。
 何もない。けれど、
 「無はあったね」と。

2011_4_19_wagahoshi_1

 最初は無。ビッグバン。と台詞があると時報(ピッ、ピッ、ピッ、ポーンというあれ)が鳴り、灯りがついてはじけるように音が鳴り始めて、演者たちがステージ中央に施された円に沿ってぐるぐる歩き出す。最初の時報が合図となって場内に響き出すビートはBPM60。つまり一秒一拍で鳴り、このビートは場面によって大きくなったり小さくなったりしながら、劇の最終盤までずっと拍を打ち続けます。ビートが大きく鳴り、また他の楽器音も合奏される場面では演者の台詞運びがそのビートに拘束され、台詞はラップになる。MCの個を吐露し際立たせるというようなラップの発され方とは異なり、発声主体が合唱したり、語句や単語ごとに発声者が移り変わったりしながら宇宙の誕生を知らせ、ハッピーバースデーを知らせ、ドメスティックな風景や単語を知らせる。リリックに使われる語句の脈絡はまだ見えないけれど、類似の音を連想してゆく言葉遊びと発声がただただ心地よく面白い。
 
 こうやって、演劇とラップとポエトリーリーディングとかが「声の芸能」という点でシームレスに融合するような、というか原初は区別なんてないようなことを豊かに物語ってくれるパフォーマンスに出会うと、気持ちの良い刺激とそれを頭で整理しきれないじれったさに駆られて、これがパフォーマンスを体感するということだよなあと嬉しくなる。

2011_4_19_wagahoshi_2


 宇宙の始まり、終わり。時の流れ。人の始まり、終わり。人生の、家庭の流れ。宇宙と人(家庭)の営み、次元の違う両者が交錯しながら、始まり、時間を紡ぎ、終わる。家庭風景を描いたパートでは、同じシークエンスを幾度か繰り返しつつ、そのシークエンスの細部を少しずつアップデートさせてゆくことで人の営みを表現しています。今ある日常と、少し過去の日常だったものの懐かしさが重ね合わさるように提示されて、人間の営為に対する愛おしさが溢れる。


 上記したようにラップパートの多くはMCの個を吐露するタイプのものではありません。しかし後半、「個人」のラップとして非常に強度を持つヴァースがあらわれます。家庭パートの父、母がそれぞれ、朝起きてから晩までの一日のルーティーンを時系列に並べ立ててゆくリリック。変わりばえがなく平凡な日々の単調さへのほのかな退屈感と、それ以上の愛着が滲む、素晴らしい独白。「駅前から家への並木道を、玄関から居間への廊下を、何回歩いたことだろう。これから何回歩くのだろう」最後に両者の営為が混声同時進行でうたわれると、ただのルーティーンはとてつもなく輝きます。


 けれど、その愛おしい営みは、儚さと背中合わせで。上演時間が終盤にさしかかることは、家庭の営みと重ねて描かれる宇宙の次元の営み、地球の終焉に近づくことを意味します。別次元であった地球と家庭の営みの最期が重なる。母が一家の末娘であるちーちゃん(名前の「ち」はおそらく「地」。地球ですね)に対してつぶやく「明日はもう来ないでしょ」というあっけない響き。それゆえに、直前の父、母による平坦な日常を描写するようなラップの記憶がまた、いっそうの力を持って迫ってきます。


 暗転を挟んでの最終盤では再び冒頭のごとくビートが強くなり、演者が円形の周りをぐるぐる回りながら拍に合わせて言葉を連ねてゆく。上演時間中いちばんの躍動感で演者たちが謳いあげるのは、世界の終わり。50億年後、地球がなくなってゆくさま。序盤ではわからなかった言葉たちも、芝居に深く浸透していることに気づく。ハッピーデース(death)デートゥーミー、と人間、地球の終わりを祝福しているのは、その瞬間には確実に亡くなっている人間の身体。いや、それ以前に今躍動している身体は、地球の終わりなど待たずに早晩消えてしまう。その小さくて儚い身体たちが、人間の、世界の終焉を伝えながら体現しているのは、まごうことなく「生きている」ことの強靭さ。終焉の予感を、終焉の瞬間を謳いながら、訴えかけてくるのはどこまでも生命。だからその祝祭が終わったところに「光速を超えて」やってきた彼が対峙した惑星の死の瞬間は、本当に美しい。


 前回公演を見逃していたので今回が初見でした。ラップをうまく消化しているという評判だけは聞いていましたし□□□(クチロロ)による音楽との相性も良かったです。ラップという表現技法を演劇上に効果的に浸透させていることは間違いないでしょう。ただ、また一方で、ラップという表現方法自体の可能性の拡張も見せてくれてもいる。演劇にとっても声の芸能全般にとっても、喚起するところの大きい作品であることも間違いないでしょう。
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