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客演女優の効用

*劇団鹿殺し『岸家の夏』 青山円形劇場 (2011.8.1)


 劇団鹿殺し作品の主人公たちはいつも、「スター」への憧憬と、自分が決してスターになれそうにもない現状とのせめぎ合いを抱えて煩悶しています。ステージの上の存在になる夢を諦めきれず、運にも才能にも恵まれず、また己の怠惰と向き合う勇気を持つでもない。身近な人間がのし上がってゆくさまを横目に空回る主人公の姿は、小劇場界という「食えない」世界を歩む劇団自身の姿の投影でもあります。憧れの座を追ってモラトリアムにしがみつき自身の怠惰を見なかったことにする人物を劇団の作家でもある丸尾丸一郎が体現し、彼にとってもっとも近くもっともつかみ得ない超越的な存在を劇団座長であり演出も務める菜月チョビが演じる。これが鹿殺しの代表的なスタイルといえるでしょう。

2011_8_1_shika564_kishikenonatsu_1


 本作『岸家の夏』は、そうした彼らの描き続けていたテーマに少しばかり、幅の拡張をもたらす契機となるかもしれません。ひとつは主題において、そしてもうひとつ、こちらの方が重要ですが、超越的な存在として舞台の中心に居続けてきた菜月チョビの扱い方において。


 本作の主人公もまた現状のうまくいかなさを持て余しながら日々を送りますが、そこで描かれるのはスターになることを追う人物ではなく、結婚して“普通の家庭”を持つことを目標にする三人姉妹です。
 半端に夢を追いながら、半端に歳を重ねてしまった人物が描かれることの多かった鹿殺しにおいては、当人が家族をつくろうとする意思はあまり主眼になってきませんでした。振り返れば相当な年月を歩み、夢をおおっぴらに追うことも嗤われる歳だけれど、またカタギの生業を容易に手にできるような若さも人脈もない。そんな設定に置かれた主人公たちにとって、自身が家庭をつくることは端からメインの目標点にはなりにくい。たとえば「婚活」という常套句に象徴される、世間的に“まっとう”なライフコースを歩むべく静かに急き立てられ、自身もそれに迷いつつ順応してゆくような葛藤からはあらかじめ距離が置かれている、ないしは放棄されているケースが多かったと思います。主人公が子供をもうけていた『赤とうがらし帝国』でも、菜月チョビ演じるタエは「主役」になることを求めて走り続け、そこでは子供との家族関係はなおざりにされていました。劇団鹿殺し作品の主人公にとって、時に自身の生家としての家族は足かせになったり物語の推進力として働いたりしますが、主人公自身が家族をつくるという局面はメインパートにされてはきませんでした。
 しかし今作『岸家の夏』では、周囲の空気や男性性・女性性をめぐる風潮に苛立ち辟易しながらも、一方で主人公たちが「魂の片割れを待ち焦がれる」(菜月チョビによる公演パンフ『演出のことば』より)物語です。鹿殺し作品としては例外的に「結婚を求めること」や「親であること」を主役割に置きながらも、疾走感においても“年齢”感においてもその勢いが揺らいでいないのは劇団の底力でしょう(「結婚」などの、一般的とされてきたライフコースを主題にすること自体を作り手の「成熟」と捉えているわけではありません、念のため。あくまでこれまでとの対比で作風のレンジが広がる契機なのではないか、ということです)。


 福岡県飯塚市の柔道家の父のもとで育った夕子、陽子、朝子の三姉妹(千葉雅子、峯村リエ、菜月チョビ)は皆30歳を超え、揃って結婚相手紹介所に登録しチャンスを伺っている。一方でそれぞれに、トルコ人と結婚し一子をもうけたもののその後トルコ人との関係が芳しくなくなってしまったり、妻子ある男性との不倫関係(それも自身が妻以外の“唯一”の相手ではなかったりする)を続けながらその男性との結婚を密かに願っていたりと一筋縄でいかない困難を抱える三人。そこに、父がつくった借金が一千万円あると告げに来るチンピラ・竜崎(オレノグラフィティ)。三女の朝子が管理している柔道場が返済不能の際のカタとして要求され、三姉妹は道場を守るべくそれぞれに金策に走る。


 なにより劇団の振れ幅の拡張を感じさせるのは、菜月チョビがただ一人で超越的な存在感を放っていた過去代表作に比して、本作では全編を通して菜月チョビと並立する二人の女優がほぼ同格の役割を担っている点です。千葉雅子と峯村リエという、キャリアも実力も備えた先輩格の女優がサブキャラではなく、菜月チョビと並び立つように三姉妹として起用されることで、非・菜月パートでの盛り上がりもレベルアップし興味の持続にとって良い働きがもたらされています。これは、千葉、峯村の巧さ、鹿殺し作品へのフィット感もさることながら、彼女たちの存在に作・演出側が刺激された結果としての幅の拡大でもあるでしょう。


 最終的には千葉、峯村と並んで物語を主導してゆく中で、菜月は半歩特別な存在となります。炭鉱の町にちなんで千葉と峯村が劇中、“詰んだ”かに見える自身たちを二つの「ボタ山」と表現していますが、菜月は終盤、ただのボタではない役割を担わされる。しかし、千葉、峯村との並立関係を経てのちに確立される菜月の特別性は、もともと超越的存在であったそれまでとは確実に意味合いが異なります。

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 そうした外部刺激がどの程度直接的に作用しているかはわかりませんが、鹿殺しの最大の魅力のひとつである、感情の高ぶりとしての歌とダンスのレンジも幾分広がっているように感じられました。峯村パートの「陽子のテーマ」でみせる、ある音楽ジャンルをノリと勢い優先で取り入れた感じのトラックは、音楽ジャンルを“まちがって”取り入れることの楽しさを思い出させてくれます。また千葉パート「夕子のテーマ」における、シーンの場所設定と振り付けを同期させつつ小道具を人力で駆動させるアクションも面白い。序盤の楽曲中における、酔ったあげくの格好が“poker face”の伏線になる遊びも含め、勢いに乗った鹿殺しの真骨頂は存分に発揮されています。


 いつもの鹿殺し同様、ラストはすべてが解決するようなハッピーエンドではありませんが、その手前に本作では主人公たちに明確で強いカタルシスを用意しています。こうした高揚シーンにおける場面的飛躍もいつもながら鮮やかです。
 物語のスタートと着地において、主人公たちの外面的環境に好転があるようには見えません。けれどもその内側に、三人が確実に前に歩んでいる跡が見えるゆえに清々しく、良い意味できれいにまとまった作品になっていると思います。
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