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一般常識としてのヴァンパイア/ポスト・アイドル期の高橋愛

*『ダンス オブ ヴァンパイア』 帝国劇場 (2011.11.29)


 “ヴァンパイア(吸血鬼)”という存在やそれにまつわる諸々は、その伝説のオリジンとは遠く離れた日本にあっても、一般に知識として共有されているものでしょう。十字架やニンニクといった品物がそれそのものの役割以外に、ヴァンパイアにまつわるアイテムとして登場すること、またヴァンパイアに噛まれることでその被害者もまた同じ吸血鬼になってしまうこと、ヴァンパイアが日光を嫌い夜間に活動すること等々のディテールは、多くの人に知られています。また、そうした社会の共通知識を前提にして、本作『ダンス オブ ヴァンパイア』は上演されています。

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 大学教授が助手を連れて吸血鬼探しの旅に出かけ、立ち寄った村で吸血鬼に怯えているらしき人々に遭遇、彼らの滞在中、助手が心惹かれた村の娘が入浴中にヴァンパイアにさらわれる。教授と助手はさらわれた少女を取り戻すべく、ヴァンパイアと思しき伯爵の館に潜入する。


 オーソドックスな展開で描かれる本作では、ニンニクや十字架といったアイテムが吸血鬼に対する防衛の道具として登場しますが、これらは吸血鬼が苦手にしているものである、という根本の説明がいちから描写されることはありません。ニンニクが出てくれば、それは身近にある吸血鬼の恐怖に対する防護策であるとすぐさま了解され、吸血鬼を前にした女性は即座に十字架を吸血鬼に向けてかざし、その意味を劇中人物も観客も承知しているという前提があるから、直後にそれをひっくり返すような展開も可能になる。


 そもそもが、先行ドラキュラ作品をコメディタッチにしたパロディとしてこの『ダンス オブ ヴァンパイア』および原作となるロマン・ポランスキー監督の映画『吸血鬼』(1967年公開)はあるわけです。ポランスキーの映画版『吸血鬼』の時点ですでに、ニンニクや十字架等のアイテムがいきなりヴァンパイア対策の象徴として用いられるという場面はつくられていて、吸血鬼伝説にまつわる基本装備が人々の共通知識となって久しいことがうかがえます。このように、設定が人々の認識に予めあることで、余計で冗長な説明を回避して超現実的な世界観の中に観客をスピーディに誘うことが可能になる。とりわけ歌とダンスの盛り上がりに時間を割くことで魅力を発揮する本作のような演劇の場合、説明を最小限にできることは良い効果を生んでいます。

 序盤の“ガーリック”を称えるシーン、ヴァンパイアになってしまった者たちによる中盤のシーン、そして舞踏会からフィナーレへと流れるラストまで、展開のテンポが良くダレ場の少ない作品になっていました。間にいちいち関係性や、超人間的存在の性質についての説明台詞を差し挟む必要もありません。誰もが知っている古典を舞台世界として適用することは、かくも強いことであるのだなと実感させられます。

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 しかしまた一方、説明されないゆえにわからないところ、回収されていないように見えるところもなくはありません。序盤、村人が来客であるアプロンシウス教授と助手アルフレートに対してなぜ、近隣の館に吸血鬼が存在していることを隠そうとするのか、その描写が最後まで特に活きているようにみえないため、いささか腑に落ちない感じがありました(もっともこれは映画版、舞台版を通じて同様)。「村人が何かを怖れて吸血鬼の存在を口にしない」という振舞いが、普及している吸血鬼伝説のディテールとしてあるのかもしれませんが(わかりませんが)、そうであるとしても、その行動がその後の何にもつながっていないため、あまり有機的な設定でないように思いました。

 吸血鬼伝説の例にもれず、本作でもヴァンパイアに噛まれた被害者は吸血鬼となり、ヴァンパイアのみの夜の世界で生きることを余儀なくされます。これは定石でいえば、完全な死ではなくとも人間でなくなるという明確な悲劇を意味します。しかし、親によって活動の自由を制限されている村の娘サラにとっては、ヴァンパイアになることが「自由」を獲得することにもなる。ここにストーリーの肝はあるはずです(その設定に随伴する葛藤を変則的な形でつきつめたのが、以前レビューしたイキウメ『太陽』でしょう)。
 しかしこの作品は基本線としてコメディタッチであり、またヴァンパイアたちの世界が描かれたシーンは歌もダンスも楽しさと「自由」さが強調されたものであるため、この作品が最終盤で投げかけているであろう、人間世界に留まることを選ぶのか、ヴァンパイアになることと引き換えに「自由」を手にするのかという分岐に葛藤が生まれません。観ている限り、あらわれる「人間」の世界は閉塞感漂う雪山の村のみなので、自由を謳歌し華やかに歌い踊るヴァンパイア世界の方に惹かれるのがごく自然なことに見えてしまう。ヴァンパイア側の不自由さ、および、それでも人間世界に感じる強い愛着と魅力、等々がワンシーン挿入されていれば、結論をはっきりさせない終わり方でフィナーレに向かうこの作品に深みは増したかと思います。


 とはいえ、冗長な場もなく陽性の楽しさをキープさせ、フィナーレで最高潮にもってゆく構成は素直に好ましいものでしたし、大きな派手さや投げかけるメッセージの複雑さはないながらバランスよく出来上がっていたと思います。少なくとも、上述した気にかかる点は、最終的に大したものに思えなくなったので、明るさとコメディを前面に出した作品として優良といえるのではないでしょうか。

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 この作品を観劇するにあたっていちばん注目していたのは、先頃モーニング娘。を卒業し、舞台役者として活動を始めたばかりの高橋愛という女優でした。アイドルとして活動していた人がその後、「アイドル」ではない芸能者として活動を続ける際、とかく困難の種となるのが、アイドルグループ在籍時のカラーを引きずってしまうことです。元◯◯の誰々、というイメージが払拭できないことは、当人の活動がそれそのものではなく、常にかつての肩書きというフィルターを通して観取されることを意味します。以前安倍なつみ主演『安倍内閣』のレビュー時にも触れましたが、その困難は在籍していたグループが著名であるほど大きくなります。その意味で、ハロー!プロジェクト出身者でまだ、過去を参照しなくてよい域に達した役者はいないといってよいかと思います(ソニンはハロプロ在籍者ではありませんでした)。


 本作は高橋愛の本格デビューですが、まずなにより良かったのは、彼女がすでに「元モーニング娘。」という色を脱しつつあるように見えたことです。彼女が持ち味をもっとも発揮するのは最終盤、フィナーレの歌とダンスです。長年ハロプロで鍛えられている人ゆえ、もっとも適応しやすいシーンであることは想像に難くありませんが、それは同時にグループ在籍時のイメージをもっとも重ねあわせやすい場面ともなります。
 このシーン、キャリアある他の役者に遜色なく存在感を発揮しながらも、モーニング娘。在籍時の刻印がもうさほど見えなくなっていたことが印象的でした。モーニング娘。在籍時から、こういう日のための準備をしていたのでしょうが、想像していた以上に、「昔の名前」の払拭に、自然に成功しているように見えました。これは自覚してすぐさま遂行できるというほど単純なものではないように思うので、「モーニング娘。以後」について彼女が非常にコンシャスであったことに加えて、彼女自身の潜在的・顕在的な特質のなせるわざかもしれません。第一歩として、非常に滑らかなものであったと思います。

 彼女の体の小ささは今のところ、どちらかといえば弱点であるように見えますし、全体的な安定感ではWキャストの知念里奈に一日の長がありました。しかし、ともかくも重要なのは、舞台に立っているのが「モーニング娘。でおなじみの」ではない女優高橋愛であったこと。ポスト・アイドル期の好例として、これからの彼女の活動が順調に継続してゆくことを願います。
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