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世話物という難関

*木ノ下歌舞伎 京都×横浜プロジェクト2011『夏祭浪花鑑』 STスポット (2011.12.16)

2011_12_16_kinoshitakabuki_natsumatsuri_1


 昨年上演した『勧進帳』で、高水準に歌舞伎を「現代化」させた木ノ下歌舞伎の最新作です。

 2010年の『勧進帳』の何が素晴らしかったかといえばまず、今日における歌舞伎と観客との関係性についての批評の鮮やかさです。昨年の『勧進帳』演出・杉原邦生は、「やっぱり『勧進帳』はいいね」と納得し合う観客たちが、実は肝心の上演中にけっこう寝ている、という光景を冷静に俯瞰したうえで、そうした「居眠りする観客」のありさま自体を舞台内容に顕現させてしまいます。ただしそれは、歌舞伎やその観客に対する冷たい突き放しではありません。あくまでそうした関係性を素直に面白がっているゆえにその演出に嫌味はない。またその「居眠りする観客」を勧進帳の重要人物・富樫左衛門役と同一の身体が表現することで、単純なメタ芝居、劇中劇のような構図にならずとても心地よかったのを記憶しています。

 さらに、今日の日常会話とはかけ離れた様相をもつ『勧進帳』の台詞群が、現代のストリートファッション(それに弁慶役は巨漢の白人により演じられる)を身にまとった役者により唱えられることで、際立った異化効果が生まれることも重要なポイントでした。背景にビートが刻まれながら展開してゆく『勧進帳』の台詞たちはしびれるほどの緊張感を発していました。そしてそれは、単に服装による出オチ的なギャップということに留まらず、「現代劇」としての興味を呼び起こす装置の役割を果たしていました。


 これらを振り返りつつ今回の『夏祭浪花鑑』を観てまず感じたのは、この演目が世話物(士族階級ではなく「庶民」の生活を題材にした、物語主体の演目)であることは非常に大きな難関なのではないかということでした。上記したように、台詞群が現代日本の日常会話とかけ離れている『勧進帳』は、それゆえに現代的服装、現代的演出に原典通りの台詞群を載せることが効果を生みやすいものでした。
 翻って『夏祭~』は世話物という性質ゆえ、台詞が現代語とさほど離れていない箇所が多い。そのため、現代的な意匠だけでは、『勧進帳』の際のような効果は生まれません。今回は、ややもすれば「時代劇」の台詞(=現代人が現代人向けに編んだ台詞)として通用する箇所も少なくない『夏祭~』の台詞を古典として受け取るのか、アップデートさせたものであるのか、そのミックスを模索するのかという方針があまり明瞭にみてとれず、芝居のトーンが落ち着いていないように感じました(歌舞伎の『夏祭~』を観たことのない観客の場合どうなのだろう、そのラインはより見極めにくいのかもしれない、とも)。
 「時代劇」の台詞的な言い回しも少なくない台本であるとはいえ、そこは近世に書かれたものゆえ、そのままでは通りの悪い部分ももちろん多い。そのため、芝居の落ち着かなさは、中盤までのストーリーのわかりにくさにもつながっているかと。これは必ずしも、元々の人間関係がややこしいことのみに起因するのではない、と考えます。


 今回、衣裳には主に簡易的な法被を用いています。こちらの感覚が前作『勧進帳』に引きずられてしまっていることもあるのかもしれませんが、この衣裳はあまり効果的に感じませんでした。どちらかといえば総体としてのチープさが先立ってしまいます。もっとも、衣裳自体はさしたるマイナス要素ではないと思います。しかし、『勧進帳』では歌舞伎との距離感(単純に遠い、ということではないのですが)に関してその衣裳も非常に意味を持っていたように感じます。現代装ばかりが最適解だなどとは思いませんが、「歌舞伎の現代化」という時、“和”のテイストの衣裳をどのようなものと位置づけるかはなかなか難しい。

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 そのような多くの難しさを孕んだ本作が俄然輝き出すのは、クライマックスの義平次殺しです。バレエの引用、黒衣で表現する泥場の面白さもさることながら、歌舞伎の型によっては実現できない類の、生々しい感情の揺れがこの場では優れてあらわれていました。額を割られたことに気づいた瞬間、また義平次との揉み合いのうち不慮に浴びせてしまう第一太刀直後の団七(松尾恵美)の表情は、本作最大の名場面。義平次を演じた殿井歩の動きも素晴らしい(殿井は本作で演じた三役のうちで義平次が随一。他方、市松役については演技・演出プランに疑問も残りました。独特のクセをつけた演技のため、始めなんらか「障害者」という設定を付与しているようにも見え、子供役としてのみ受け取るのに時間がかかりました)。古典を再解釈することの意義を考える時、もっとも何かが拓けそうに思えたのはこの場でした。


 それにつけても本作では、古典を現代に最解釈することの難しさをまざまざと見せつけられました。以前、柿喰う客による素晴らしい古典再解釈作品『悩殺ハムレット』をとりあげましたが、シェイクスピアの場合、継承するのは「戯曲」であって演出ではありません。しかも日本では外国語の翻訳として受容される以上、その台詞自体にも自由度が生じます。
 しかし歌舞伎の場合、台詞も演技の型も継承されるべきものとして遺され、古典として受け継ぐならばそれらの要素に規定されることになる。こうなると、題材だけをいただいてあとはフリーに創作するような手法をとらない木ノ下歌舞伎の試みは、それ自体がいわゆる「歌舞伎」そのものには成り得ない以上、舵の取り方は本当に難しい。串田和美演出のように、いわゆる松竹の大歌舞伎が歌舞伎の型を保持しながら同時に約束事を崩すような傑作を生んでしまうと、「在野」はどうにも分が悪い。

 とはいっても、大歌舞伎の中だけでしかその類の試みがマスターピースになりえないのでは面白くありません。現代における歌舞伎への批評性と歌舞伎への愛着と双方を保持している木ノ下歌舞伎に託す希望は大きい。それを思えば、歌舞伎の現代化を担っていくのに、世話物を回避し続けるわけにもいかないでしょう。解のみつけにくい、しかし早晩突き当たらなければならない題材との格闘は、やはり好ましく思います。
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