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虚像、かくの如し

*M&Oplaysプロデュース『アイドル、かくの如し』 本多劇場 (2011.12.23)


 本作『アイドル、かくの如し』で描かれる“アイドル”は、昨今のアイドル文化に慣れ親しんだ人の目には、幾分オールドファッションな捉え方のものに見えるでしょう。この作品に登場するアイドル・くらら(上間美緒)はソロのアイドル歌手として活躍し、これから新規分野のドラマに進出しようかという段階におり所属事務所の稼ぎ頭である、という設定です。しかしながら、「アイドル歌手」というジャンルがグループアイドルに席巻されている今日において、ソロの“アイドル”歌手としてデビューしその成功を足掛かりに他分野に進出するというルートは実際には想像し難くなっています。ソロとして考えやすいのはむしろ、女優、モデル等他分野で実績を得つつある若手が歌手活動もやる、というケースでしょう。

2011_12_23_idol_kakunogotoshi_1

 また、作・演出を手がける岩松了はアイドルという存在について「完璧にいけにえだと思います。何かの代替物。虚像なわけでしょ、どう考えても。その虚像に人は群がるわけだから、求められる人は、いけにえですよ」と述べています。本作でのアイドル・くららの描かれ方は、そのような虚、およびその反対面である実の二面が背後に踏まえられているように見えます。
 くららは事務所内、つまりオーディエンスの前に立たない“裏”の場面では、時にスタッフに対して明快な応答をせず、仕事に対してのモチベーションもはっきりしないような態度をとったりする。これは表にあらわすことのないひとつの“裏”の顔です。劇中、岩松自身が演じる作詞家・池田は、くららを落盤事故救出の作業員激励イベントに出演させるなどして、少女の歌だけ歌っているイメージではなくて、社会活動にコミットすることでくららに対して世間が持っているイメージを揺らしたいと言います。表のアイドルイメージを裏方が制御していくようなアイドルづくりがそこには設定されています。

 現在、アイドルはライブ、テレビや雑誌媒体に留まらず、インターネット媒体を中心に、過剰にアウトプットすることでファンの興味を持続させざるを得ない環境に置かれています。ステージを降りた“裏(とされるもの)”までアイドルの側が能動的に開陳してゆく必要がある。そうした環境設定に加えて、アイドルが定期的に“会う”存在になっているという距離感の変化は、その「アイドル像」に根本的な揺さぶりをかけることが予想できます。
 また今日においては、アイドルが積極的に「アイドルらしからぬ◯◯」を売りにして、差異化をはかろうとする手段さえ常套になり、時にはアイドル自身が「アイドルらしさ」を半ばネタ的に披露してみせる。それは、ステレオタイプな虚像としての「アイドル像」を如何に相対化するか、というモードが“アイドル”シーンで生じているということです。

 こうした状況においてファンは、アイドルの単層的な虚像を楽しむというよりも、アイドルの虚実の皮膜(と思しきもの)を享受しているという側面も強いのではないか。もっとも、そうした重層的な虚実の皮膜遊びをひっくるめて、それは虚像であると指摘することは可能ですし、そう指摘されるならば、またそれは真でもある。ともあれ、本作にはそうした重層性への目配せはないように思います。現在の話として『アイドル、かくの如し』を受け取った時、そこに微かな違和感がないわけではない。
 しかし、演劇はアイドル時評などではなく、外面的な情報の収集能力によってリアリティが生じるものでもありません。昨今の状況を精緻に踏まえることは、それがテーマにおいて必要な際にのみ、やればいいのかもしれない。

2011_12_23_idol_kakunogotoshi_2

 結果的に、“アイドル”の虚実観がシンプルに縮減されたことで、本作の描くものは見えやすくなっています。この作品のテーマが「アイドル」であったならば、そのシンプルなアイドル観はもっと引っかかるものだったでしょう。しかし端的にいえば、これはジャンルとしてのアイドルの話ではありません。けれども、作者・岩松了がアイドルという存在に対して述べている、「虚像」の話ではあります。


 くららの置かれる状況を過度に心配するマネージャー・百瀬(津田寛治)が、対照的に泰然と構えているくららの実母・木山(宮下今日子)に対して母親なのに心配しないのかと問うシーン。木山は百瀬に対し、実の親だから彼女がどういう場面で強く、どういう場面で弱いのかくらいはわかっている、だから大丈夫であると、矜持を垣間見せながら反論します。親という立場の説得力を木山は見せつけますが、ごく親しい人間の考える当人像だって、いってしまえば虚像です。その後の場面で、後輩マネージャーの本間(足立理)がどのような人物であるのかと訊かれた百瀬は激昂したように、言葉でどんな人物であるかを説明し得るのか?と問い返し暴れます。客観的な実体を設定することの不可能さが、この作品では明示的暗示的に繰り返し描かれている。
 
 この作品のパンフレット所収のインタビューで、作者岩松は、あるベトナム戦争を扱った小説の叙述について、「それは現実の戦争について述べたことではないけれど、その人にとっては、その時の水面のきらめき(※小説中で叙述されている)が、戦争の本質に近い何かだった、ということは伝わってくる」と述べます(これは『アイドル、かくの如し』のテーマに関連して述べたものではありませんが)。彼は、ある人間に事象がどう受け取られているのか(の差異)、あるいはそこから派生して客観的な実体や虚構性ということに敏感な作家なのではないかと思いますが、本作品ではアイドル像やスキャンダルの“真相”など、客観的な真実が問われ続けるような環境設定の中で、登場人物の捉えている状況が虚なのか実なのかということの判断し難さが突きつけられます。芸能事務所社長・祥子(夏川結衣)の目の前にあらわれる、かつて浅からぬ関係にあったと推測できる人物の姿にいたっては、いま目の前にいるという実在さえもその虚実が揺らいでしまう。こうした整理のしづらい展開を、あからさまに輪郭線を描くことなく静かに描写するスタイルには、不思議な訴求力があります。


 本作のもう一つのテーマは祥子とその夫・古賀(宮藤官九郎)の夫婦関係。相手の浮気ももはや決定的な出来事にはならず、また腰を据えて話し合っての相互理解も諦めたような夫婦関係は、それでもなお絶望を感じさせるのではない、絶妙の仕上がりになっています。小さなディスコミュニケーションが重なる二人は、互いの状況を素直に汲もうとするような関係を築けてはいない。そこにはもう、相手に理想として託す虚像さえない。それなのに、そうなってからの夫婦の姿は、最終的に微笑ましい。劇終盤、夫との話を円滑にするために“虚構”のエピソードを挟んで会話を進める祥子は愛らしく、この夫婦関係が物語後半の中心に据えられたことで後味も柔らかいものになっていたと思います。
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