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明智小五郎、森田健作化のお知らせ

*『京乱噂鉤爪―人間豹の最期―』 国立劇場 (2009.10.22)


もともと昨年の『江戸宵闇妖鉤爪』で原作のストーリーは終えてしまっているので、その続編となる今作はある程度までもう「乱歩」歌舞伎ではないし、原作ストーリー上の制約からは逃れられる一方、「原作がこうだから」というエクスキューズもしにくくなる。言い換えれば、現場キャスト・スタッフのストーリーテリングで勝負する機会である、ともいえるわけです。

江戸川乱歩の原作において人間豹・恩田の生い立ちや詳細などは明かされず、明智小五郎との決着もないまま物語は幕を閉じています。昨年の歌舞伎版第一作では恩田の出自にオリジナルの設定を足すことで、人間豹の鬱屈や行動原理を説明しようとしていました。そのスタート地点は悪くなかったはずなのに成果が芳しくなかったのは、人間豹が理屈を言ってる割に行動が伴ってなかったり、明智の人物造型が薄っぺらかったり、ということが原因であったかと(詳しくは昨年のエントリーを)。
乱歩の原作から離れることになる今作は、京都に犯行の舞台をうつす人間豹に、彼を操ろうとする陰陽師、人間豹を追って京都へ向かう明智、明智が若い頃師事していた人形師一家を巡る話に、陰陽師に騙される公家の恋物語…。それ、「人間豹の最期」ってテーマの話にまとめきれるのか?というほどにオリジナルの要素を足しています。


まとめきれませんでした。

面白そうなとっかかりになる設定をいくつもチラ見せしてはいるのですが、それが効果的に後々まで繋がったりはしないので、ことごとく未消化になっています。
世に動乱を起こしそれに乗じて国を我が物にせんとする陰陽師・鏑木(中村梅玉)に人間豹・恩田乱学(市川染五郎)が操られているらしく、明智小五郎(松本幸四郎)も恩田に向かって「お前は鏑木に操られているのだ」と叫んだりしてその設定を説明するのですが、肝心の「恩田が操られている」ように見える描写がないのです。操られていると指摘された恩田はそれを否定し、自身が繰り返す殺人については自分の意思で「殺したいから殺すのだ」と反駁する。見る限りその恩田の言い分の通りであるようにしか感じられないため、「操られている」という明智の指摘はさしたる根拠もないことを力説しているようにしか見えません。
命を狙われる公家・実次(中村翫雀)も「お前(恩田)も鏑木の一味だな」と叫び、終盤には鏑木自身も、俺が恩田を操ってやるんだ、と言い恩田もそれに応じて再び反論します。それら一連の説明台詞に対応する場面がないため最後まで鏑木と恩田の関係は腑に落ちないままでした。言葉でのみ説明して演劇描写が伴わない、というのは昨年も同様だったため、このカンパニー自体の課題かもしれません。


今作オリジナルの人物パートを膨らませた結果、人間豹の存在を描写する隙間がなくなってしまった、ということもあるのでしょう。オリジナルのキャラクターで随一の存在感を示すのは陰陽師・鏑木です。彼の人物造型も初期設定の段階では面白い。
ピュグマリオン、と言ってしまうのは乱暴でしょうが、簡単にいえば生身の女より人形の方が好き、な男です。江戸川乱歩作品でいうなら『人でなしの恋』です。だから名工の細工した人形を偏愛し、自分が世の天下をとった暁には人形に魂を吹き込んで后にしようと目論む。悪役の設定としてはなかなかに引きがあります。

しかし、やはり偏愛している描写に乏しいのが惜しいところ。あまつさえ、人形に悋気する部下の綾乃とは直接的にセクシャルなシーンがあるのです。しかし綾乃がその行為をもって「人形に勝った」と呟くと鏑木は激怒し、この人形に勝る女などいない、と言い張ります。それなら人形の方とはもっと濃密に体を交わさないと。この設定で、生身の女性とのシーンがいちばんエロくちゃいかんよなあ。この後、結局彼の偏愛っぷりは見ることができないため、最後にその人形が絡んで鏑木が死を遂げるところがそれほど生きてこない。設定はよかったんですがね。


あとはやはり、昨年同様明智小五郎の「正義」が薄っぺらいことが全体に大きく影を落としていますね。前作でも建前的正義を人間豹からバカにされると、「それでも自分は人間の心を信じる」等言い返してさらに建前的な言葉の上塗りをしていましたが、今年も人間豹に「お前にはまだ穢れのない魂が残っているはず」という、思考停止のような説得を試みています。
一方の人間豹ですが、今回は一作目に語っていた能書きを繰り返すこともなく、「殺したいから殺す」という原理のみを口にするため(去年の人物造型を引き継いで描写するほどの尺の余裕がなかったんだと思います)、明智の独りよがりで、気持ちこめて伝えれば何とかなるっしょ!的な浅薄な正義を批評する存在としては効果的になっています。それならばとことん建前的正義に対する皮肉としてこの作品を成立させても面白かったはず。実際途中まではそう受け取ることも不可能ではないんですが、人間豹が華々しく死んだのち、明智に「お前は人間豹のまま死んだのか、それとも人として…」とエモーショナルな調子で言わせているラストシーンからするに、たぶん明智の浅薄さを意図した話ではないでしょう。この明智小五郎は、俳優が損する役回りのように思われるのですが。


ただ人間豹の最期はとても良い、と思います。自分の望む「大空」が現世にないと悟って恩田は、如意ヶ岳(京都の大文字送り火の山です)の火床に火を放ち自殺を遂げる。自らの体を燃やして時期外れの送り火と化すその最期は、『パノラマ島綺譚』のようでもあって乱歩的世界としても優秀。このシーンを終盤に用意できたことで、劇の感触はぐっと良くなります(だからこそその直後の明智の能書きが余計に……)。


あと人間豹自身も死に際して、「この国がどう変わろうと、俺みたいな不幸な奴は、百年、千年先もいなくならない」と、思い出したように前作の屈折を叫んでましたね。今日に繋げたいのであろう前作の社会批評を引っぱるなら、劇の中盤でもそれは描いておかないと。いや、描く意志はあったのかもしれませんが、入れ込めなかったのか。新たなエピソードを盛り過ぎて、前作以来のメインストーリーが薄まっていたように思います。人間豹、影薄かったからなあ。

リア充になりたい

*歌舞伎座さよなら公演 八月納涼大歌舞伎 第三部『お国と五平』 歌舞伎座 (2009.8.11)


『お国と五平』が今日語られるときに、その現代性(普遍性?)が評価されるというのは正当なことでしょう。けれども、その場合に言及される「現代性」が、どうしても登場人物・池田友之丞の人間性(への批判)に集約されがちなのは、いささか窮屈なように思われます。
確かに友之丞は己の境遇も性格の弱ささえも全部「俺のせいじゃない」ことにしてしまうし、お国への、良く言えば一途、普通に言えば一方的な恋慕も常軌を逸している。

本作演出者の福田逸は1997年の上演時にはこの友之丞をストーカーになぞらえ、今回の上演に際しては2008年に起きた秋葉原通り魔事件の犯人の心象風景との相同性を見ています。そうした「現代性」へのすり合わせ自体はまったく的外れではないし、今日上演するのであればそうした想定は正確なものです。

とはいえ、「現代性」をその点に集中させてしまうと、現代社会における友之丞サイドの人間を外側から批判、糾弾する方向にばかり傾斜してしまう。それは彼らをますます息苦しくさせかねない思考なのではないかと。
さらに言えば、90年前に作者の谷崎潤一郎がこの戯曲に託したのはそんな単純な「現代人」批判ではないはず。というか、谷崎はむしろ友之丞にこそ最大のシンパシーを注いでいると思うのです。


お国の夫・伊織を殺害した友之丞は、その仇討ちを果たそうとするお国と対峙し、お国への積年の想いを訴える。そもそもお国と友之丞はかつて許嫁だったのだけれど、友之丞の人格、評判が悪く、先の見込みもないと見切ってお国は許嫁の縁を切り、伊織に嫁いでいた。剣術の腕もない友之丞は、不意を狙って伊織を闇討ちにした。

人間的評価が乏しいためお国に見限られ、許嫁を解消されていた友之丞は、

「いいよな、(死んだ)伊織は。人格も立派、剣の腕も立派、男らしいって誉められて。羨ましくてしょうがない。俺なんかそんなのひとつもないもん」

恨み言をつぶやく。応えてお国は「だったらあんたも男らしくすればいいじゃんよ。それに、夫のいる私にいつまでも惚れてるってどういうことだよ」と返す。友之丞はそれに対し、

「いやそれは、俺が生まれつきこういう屈折したダメな性格なんだからしょうがないでしょ。生まれつきなんてどうしようもないでしょ。たとえばあなたは生まれつき、きれいな顔してますよ。それと同じ。そもそもがそういう性格に生まれてきちゃったんだから、そんなの俺自身のせいじゃないじゃん」

ええ、最低の言い訳なんですけど、友之丞のメンタリティを世の中の皆が「最低だ」と切り捨てられるなら、「リア充」なんていう蔑み半分、羨み半分の単語が生まれたりしないわけで。確実に友之丞サイドの人間が言い出した単語ですよね、リア充って。
で、この戯曲、ここからはどちらかといえばリア充のお気楽さと欺瞞を糾弾する話だと思うんですけれども。いや、谷崎の時代にネットはないけれど、同質のルサンチマンが吐き出されていることは間違いない。

「そんなに自分の醜さを自覚してるなら、どうして人の恋路を羨むのか」っていうお国の友之丞への見下し方もすごいのだけれども、さらにお国は、

「それほどまでに自分を慕ってくれるのなら、それを私は憎いとは思いませんよ。だから覚悟して死んでくれ」

と言う。これはまあ、仇討ちという大義名分からすれば致し方ない論理展開なのかもしれないけれど、お国は正直なところ、殺された伊織を根っから引きずっているわけではなく、むしろ気持ちは、共に仇討ちの旅を続けている自分の家来・五平へと傾いている。お国を想うあまり、姿が見明かされぬよう密かにその旅を尾行していた友之丞は、お国と五平がすでに肉体関係にまでなっていることも知っている。仇討ちの大義名分なんてもう形骸化しつつあるわけです。友之丞がそれに言及するとお国は、

「お前を殺して仇討ちを果たさないと、国へ帰れない。はやく帰って、晴れて五平と夫婦になりたいんだよ」

本音が出ました。もうこうなると二人が仇討ちを済ませたい理由は、大義などではなくて、早く公認のカップルになりたいから。正当性と私欲がごっちゃになった二人に友之丞は斬り殺されます。

手負いの友之丞は、「でもな、お国は俺と寝たこともあるんだぞ」と、あまりに小さい最後っ屁をかまし、対して五平は「恋の敵!」と言い放って友之丞にとどめを刺す。最終的には完全に色恋の私怨になっています。「恋の敵」っていう動機で殺しちゃったら、あなたも友之丞を責められないでしょうに。


生まれつきの性質ゆえに世間に認められ、立派な侍として誉めそやされる伊織に対し、友之丞は生まれつきの良くない自分に対して世間は同情もせずに疎む、と嘆く。お国が自分を見捨て伊織に乗り換えたときも、皆よくやったと言うばかりで見捨てられた我を哀れむ者もなかった、と。そういう世間が恨めしく、それに楯突くつもりで伊織を殺したのだ。友之丞はそう訴えました。

明らかに身勝手ですし、伊織が殺されるに足る理由などそこにはなにもない。秋葉原の事件になぞらえられやすいのはこのあたりの心情吐露でしょう。けれど、この話を彼の「身勝手さ」に収斂させる解釈は、やはり鬱屈した人間への理解を放棄することになるかと(「共感」などする必要はないけれど、それと相手を理解することの重要性とはまた別)。

つまり友之丞の吐露は、ルサンチマンを溜めた人間にとって世界がどのように見えがちであるか、ということの顕示でもあるわけです。

あいつだったら何でも受け入れてもらえるし認めてもらえる。自分みたいな存在は受け入れてもらえない。実際にお国と「不義密通」をはたらいたのは五平の方なのに。めぐり合わせさえ違えば、自分が五平を糾弾できるのに。不義をした五平は誉めそやされ晴れてお国と夫婦になる。自分は伊織を殺したゆえに追われる身となったが、五平は自分(友之丞)を殺すことがお国と結ばれる足がかりになるし、あまつさえ立身のための道具にもなる。

発端からいえば友之丞が悪いことに違いはないけれども、私欲と大義を混同している、そしてその混同を「仇討ち」という正当性で丸め込もうとするお国と五平の欺瞞も、友之丞の鬱屈から照射される。友之丞は(基本的には彼自身に非は大いにあるのだけれど)貧乏クジを引き続け、一方でお国たちの欺瞞さえも世間は美談にしてしまうのであろう、その理不尽さに更にルサンチマンを溜め込む。友之丞という人格を通してこそ、リア充の無自覚な、それゆえに厄介な残酷性を突きつけることができるのです(未見ですが、鈴木忠志演出版は、その残酷性が拡大提示されているのかな)。

斯様に提起するものは強いし、話の展開も良いのだけれども、基本的に地味で尺も半端なこの戯曲は、たとえば現代演劇としてどこかの劇場に出すには、引きが弱いものではあります。こういう作品を自然に興行に配置することができるというのは歌舞伎の強みでしょう。それにまた、歌舞伎座の観客にこうした精神的アンダーグラウンドの主張を見せつけることができる、というのも爽快ではあるし。性質上、上演頻度が多くならないのは仕方ないけれども、古典とは多少違う意味で、こういう演目は忘れられないようにしないと。

ハッタリがきくというのはこういうこと

*歌舞伎座さよなら公演 三月大歌舞伎『元禄忠臣蔵』 歌舞伎座
昼の部『江戸城の刃傷』『最後の大評定』『御浜御殿綱豊卿』 (2009.3.23)
夜の部『南部坂雪の別れ』『仙石屋敷』『大石最後の一日』 (2009.3.2)


今更ですが、忠臣蔵は「仇討ち」ではないわけです。

このことのいちばん簡単な説明としては、大石内蔵助たちの主君・浅野内匠頭は、自分が刃傷を起こした責任で切腹(将軍から下された処分)することになったわけで、別に吉良上野介の手で死に至ったからではない、ということですね。自分が悪いんじゃん、ということ。これが表面上の道理としての、「仇討ちでない」端的な理由。

それから、当時の将軍綱吉により理不尽な理由で大名家が取り潰されていった(のに吉良には「喧嘩両成敗」的なお咎めがなかった)ことに対する社会のフラストレーションとか、浅野家への同情とかが討入りを後押しする、というような空気があったんだろうとしても、それもやっぱり吉良上野介が奇襲をかけられて殺されることには繋がらない。

だって吉良自身は殺されなきゃならないほどの社会的理由を持っていないわけですから。


それでもこれを「仇討ち」、堪え忍んだ者の溜飲を下げる話に仕立てるのであれば、吉良が殺されるための道のりらしきものをなんとか拵えなければならないのですね。まず、吉良を基本的に性悪の人物として描くという方向。これは古典歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』でもやっているし、今月の『元禄忠臣蔵』でもその方向は維持されている。吉良から耐え難いほどの「散々の辱め」を受けた結果の刃傷である、という筋道に代表されるものです。

けれど、それはやっぱり「仇討ち」として吉良が討ち果たされることには直結しない。少なくとも「仇」として目される正当性はどこにもない。吉良は簡単にいえば浅野に礼儀作法を教授する役目を当時していて、「辱め」もその文脈でのことみたいですが(事実としては明らかじゃないみたいだけれど、かりにそうだとしても)、知らないことを教わる側がその過程で、単なる無知ゆえにある程度恥ずかしい経験をするのは、自然なことじゃないかなあとも思います。それでいちいちキレて切りつけられたら、教える側はいい迷惑だよなあと。


で、そういう意見に対して、「それは現代の感覚でいうからそうなんで、当時は浅野及び大石たちの感覚が正当であった」というような説得法があるかもしれません。でも、それなら面子を潰されたことを理由にしての刃傷なんてもっといっぱいあって、それが大々的に肯定されているべきでしょう。『元禄~』でも大石自身に主君・浅野の刃傷に関連して「生まれついての短慮」だといわせています。浅野の行動は時代的に見て当然、という解釈がされているわけではなくて、それはあくまで「短慮」なわけですね。


浅野の刃傷が「短慮」って大石自身が思うなら、吉良をわざわざ殺しに行く理由はないんじゃないの?と思います。討入り後に大石らを尋問する仙石伯耆守(せんごくほうきのかみ)もそう訊きます。こたえて大石がいうには、

「いや、そういう、理屈とかじゃないんすよ」と。


「短気おこしちゃって、とか批判もされてますけどね、部下から見たら、そんなにダメな人じゃなかったんすよ」と。


「もう全部投げ打っちゃうほどの気持ちがなにかあったんでしょ、主君には(←それが何かはわかっていない)。それがね、殺したかったのに殺しもらしちゃった。残念でしょうねえ。だから、俺らが代わりに殺してやったんです」と。


えぇ?いいの?そんなので。結局、吉良が何で殺されたのかは「理屈じゃない」、っていうか不問にしているんですね。主人は殺したかった人を殺せないまま、死んでしまった。だから俺らが代理で殺してやる、ということなんですね。もう「吉良を殺す」は絶対的な到達点としてあって、なんで吉良が殺されなければならないのか、そのことの正当性は疑われない。熱情を持って主君への思いを語れば、それですべて肯定されてしまう。論理的に尋問していたはずの仙石も聞きながら、「そうだよねー」と同情していく。吉良上野介の、被害者としての人間性を無視しないと、この話は成立しないわけです。



今日この理不尽が通用する、あまつさえ「仇討ち」の代名詞になってしまうというのは、もう「忠臣蔵」が皆の思考停止を許してしまえるほどブランド化しているということなのでしょう。義挙である、耐え忍んで仇を討つ話である、というラベリングに寄り添えば、そこに見る側の新しい判断はなくてもいい。話全体を追い続けなくても、見せ場の断片から「仇討ち」的メンタリティを容易に想像してしまえる。情緒的に大石内蔵助が心の内を畳み掛ければ、吉良の立場とかは置いといて「そうだよねー」と感情移入が簡単にできる。そういうことがブランドの強さなのだと思います。


それから、何十年、何百年とこの「忠臣蔵」のエピソードが引き継がれたという事実は、なんであれ強い。時間的長さに言及するだけで「日本人に愛され続けた」みたいな常套句に妙な説得力を持たせてしまうし、もうこの古典に疑義を挟むことはない。というか、疑義が挟まれたとしても、「仇討ち」の代表としての立場が揺らがないほどの存在に、もうなってしまっている。こう書いている自分が浅はかなのかなあ、とぼんやり思わされてしまっているので、これはもう私自身も「なんとなく」でしかないはずの権威に説得されているということなのでしょう。

逆に松竹って(ずるいほどに)すごいよね

*第三回 歌舞伎ルネサンス公演 『萬夜一夜先代萩』 浅草公会堂 (2009.2.10)


「誰でも自由に参加し創造し発表できる歌舞伎」をつくる、というのが、この企画のスタンスであるようです。
より具体的には、まず松竹系の大歌舞伎(歌舞伎座とかで公演される、いわゆる本職の歌舞伎役者たちがやってる歌舞伎)を敵視、というか少なくとも批判対象にしています。門閥の俳優ばかりがやっている、今の時代に合ってない歌舞伎に対し、民衆的で創造的な歌舞伎を取り戻す「ルネサンス」である、と(いや、これは私の見解じゃなくて、この公演の企画者の志向です。念のため)。
しかし、いまや「伝統芸能」というブランドを自覚的に武器にして多様な策を打ち出してみせる松竹歌舞伎を批判するには、それ相応の発想力が必要。カウンターとして立つ側に、松竹と伍するだけのだけのブレーンがあるのか、ということがここではポイントになるでしょう。


公演プログラムやチラシに載せられている企画者の理念を読む限り、彼らのいう「ルネサンス」は残念ながら的を射たものであるようには思えませんでした。要約すれば、

「いまや大きな興行会社(松竹ですね)による歌舞伎だけが生き残った結果、門閥的でお上品な歌舞伎しか存在しなくなり、人々の支持を得るような歌舞伎がなくなった」

といいたいようです。

興行会社に映画製作部門があることを指して、GHQの文化施策の象徴みたいに言い表していたのもどうかとは思うけれども、なにより、生き残った大企業による歌舞伎をつまらないものと想定、消滅したいわゆる小芝居(官許の芝居ではない、いってみればインディーズの集団)の歌舞伎劇団を、大衆の支持を得る「創造力あふれる」ものと想定する発想に無理を感じます。
企画者がいうには、企業による歌舞伎のみが生き残ったことによって「現在の我々は行儀がよく、品格を重んじる歌舞伎しか見ることができなくなってしまったのです。社会を正視し、諷刺した歌舞伎。時代のニーズに合った歌舞伎。自由な競争を勝ち残り大衆の支持を得た歌舞伎を見ることはできません」(公演プログラムより)のだそうです。


「時代のニーズに合った歌舞伎」といいますが、そもそも近代に入って歌舞伎そのものがもう時代に合わないんじゃないのか、と言われ続けてきたわけです。西欧演劇を志向する人々からはいくらでも叩かれてきたし、もう歌舞伎自体消えるんじゃないの?っていう議論は戦後もしばらく続いていたわけで。
それでも政府主導だろうが大企業だろうが、ともかく興行としての歌舞伎を捨てなかった人たちがいて、それで命脈が繋がれたので今日の歌舞伎の隆盛に偶々結びついている、と。小芝居の歌舞伎が消えたのだって、それこそニーズが問われたという側面はあるはずではないでしょうか。

「行儀が良く、品格を重んじる家柄の歌舞伎」という松竹歌舞伎についての説明をもって、それは時代のニーズではない、といいたいのだと思いますが、いや、いま『和楽』とか読んでる人が求めてるのってまさにそういう雰囲気なんじゃないかと。「門閥」という言葉が「封建」ではなく、「伝統」と肯定的に読み替えられがちな現在、その論拠でカウンターを演じるのはいくらか無理があります。


ところで、近世の形式を継承せざるを得ないゆえに、門外漢に届きづらいものになっている、という課題は歌舞伎には常につきまとうものです。形式の継承と格闘しながらも、今日的な提起を歌舞伎の中で具現してゆこうとしている人々は少なくありません。中村勘三郎が串田和美や野田秀樹とともに続けている試行錯誤はまさにそれでしょうし、その中で一定の支持を集めている(それは今日のニーズに「合う」というよりも、もっと能動的に潜在的ニーズを刺激している作業かもしれません)。演出を行なう野田も串田も、何を外したら歌舞伎じゃなくなるのか、どの形式を守ることが必須なのかという、明快な枠組みなどあるはずもない問いの中で、伝統継承と現代的提起力との折り合いをつけようともがいている。伝統芸能として何がしかを「継承」せざるをえないという問題に切実にあたればこそ、その試行錯誤は生じ得るし意味を持つのでしょう。
で、まあ、古典的な歌舞伎とそれに対する上述のようなカウンターと、両方が対峙して活性化する構図を、ひとつの会社が抱える興行の中でやってしまっているところが、松竹のずるいところ、かつ非常にうまいところなわけですが。


そのことでいえば、今回の企画はまず、歌舞伎というフォーマットを使って何をやりたいのかがよくわからないものになっていました。無理のある論を用いてまで門閥歌舞伎を批判し、自身たちが歌舞伎を演じる権利を主張してまで(っていうか、誰も一般人が歌舞伎をやることを禁止してないけど)、歌舞伎にこだわった理由がいまひとつ見えてきません。

演目は『伽羅先代萩』の「御殿」の場、プラスその数十年後を描く「老後の政岡」のふたつですが、基本的には従来の歌舞伎をなぞったもので、演技法も演出もとりたてて新奇というわけではない。「男女の区別なく誰でも自由に参加」させるという理念もあって、朝丘雪路をはじめ女優も登場していますが、特に「女性が歌舞伎に出ている」以上のものではなく、総体として松竹の形式を批判するまでの新しい何かはありません。
「ルネサンス」の理念は声高なのですが、歌舞伎のかたちをなぞったようなものに落ち着いていて、「創造」「ニーズ」「自由な競争」といった彼らの言葉を想起する要素を看取することはできませんでした。むしろ、実践としては歌舞伎を安易な記号性でとらえてしまっているような、そんな気さえします。

当人たちにそんな意識はないと思いますが、歌舞伎俳優が身内にいなくても歌舞伎を企画上演したい、という歌舞伎好きの道楽の実践に、あとから理屈だけ盛り付けたもののようにも見えました。企画者たちが善しとする小芝居の「諷刺」「創造性」を旨とした歌舞伎をつくりたいのであれば、小劇場とか、ちょっと前ならテント小屋とか、そういう空間で始めて支持をつけていく方が、見え方としても良いのではないでしょうか。今日、近世の小芝居に近い環境があるとすればそれは小劇場かもしれないし。


何度も書いていることですが、歌舞伎はアイドルを見にいくものです。今日にあっては、門閥的な家柄さえ、それ特有の魅力を付与させるスパイスになっているわけで、その時代に松竹歌舞伎を否定して、「これが本当の歌舞伎だ」と提示して支持を得るのは容易なことではないでしょう。創造的な芝居を見せたい、というのは正論かもしれませんが、そのための手段としてなぜ歌舞伎にそこまでこだわるのかがわからない。それが「歌舞伎好きの道楽」に見えてしまう一因でもあります。
近世には各地方にも歌舞伎の小芝居があって創造的な芝居をつくっていたから我々はその歌舞伎を取り戻すんだ、という理由付けかもしれませんが、そのころには歌舞伎以外の演劇技法がまだ流入してなかったのだから、今日のように数ある演劇ジャンルの一形態として「歌舞伎」という言葉を指し示すことにも難があるでしょう。


あと、主役に招聘したのが朝丘雪路と林与一って、なんか結局役者の家柄、とはいいませんが、「やんごとない」感じに頼ってるような(林与一って元歌舞伎役者だよね)。言葉で並べ立てる理念(自体も非常に古いが)と、舞台上とがけっこう乖離しているのも印象的といえば印象的。朝丘がカーテンコールで話していたのは、「昔から大好きで見ていた歌舞伎を私がやれて嬉しいー」という、ひとりの歌舞伎好きの素直すぎる告白でした。
そうそう、だからこれは理念が余計なのだ。単に「朝丘雪路・林与一特別公演」と銘打って、内容は歌舞伎をやります、とそれだけの方がすっきりしていいんじゃないでしょうか。そうやって歌舞伎役者じゃない人が、しれっと当たり前に歌舞伎をやってしまう方が、企画者がやりたいのであろう歌舞伎の脱構築になると思います(別にその脱構築を支持するものではありませんが)。

諸悪の根源は全て私にあるもので

*『遠山桜天保日記』 国立劇場(2008.12.9)


場内で売っているプログラムにあらすじ変更の訂正紙がはさまっていて、直前まで演出、ストーリーに試行錯誤を重ねていたのであろうことが察せられます。改訂に至る経緯や書き直しの過程は知るべくもありませんが、結果としてストーリー全体の効果上、小さくない改変であったように思います。さらにいえば、訂正前後のあらすじを見比べると、結果的にあまり良い効果を生んでいないのではないかと。


プログラム内の俳優インタビューでは尾上松緑が自身の演じる佐島天学を、「諸悪の根源」と表現しています。改訂前のあらすじを読む限り、三人登場する悪党のうちで確かに佐島天学は、手を組んだ他の二者に比べて、より根源的な性質として悪であるように描かれます。仲間になった悪党生田角太夫(尾上菊五郎)を見捨ててでも己の欲を通そうとし、角太夫の妻さえも非情に殺してしまう(とはいえ、かつて角太夫に濡れ衣を着せられた恨みが彼の行動原理になっているところがあるので、不条理なまでの悪とはいいがたいのですが)。ともかく、ある時点で改心することになる他の二者に比べて、良心を見せることがない。その性質をもって松緑は「諸悪の根源」と言い表したのでしょう。と、ここまでは上演版でない、改変前のプログラム上での話。


改定後では、角太夫の妻は天学に殺されるのではなく、自らの夫である角太夫により刺し殺される、というように変更が加えられています。これは結果として、天学がはたらくはずだった悪事がひとつ減った、ということに留まらず、角太夫が改心するきっかけが失われてしまったことにもなります(改訂前、天学に斬られ瀕死の状態となった妻とのやりとりの中で角太夫が改心する筋になっていたため)。
つまり上演バージョンでは、良心を見せない悪、という存在は天学と角太夫二人が受け持つことになり、「諸悪の根源」であるはずの天学の悪人ぶりが際立たなくなってしまっている。結局は角太夫も天学によって殺されてしまうので、改定後も作り手の意図としては、天学を最大の悪役として造形したかったのだと思います。であれば、天学の手により角太夫の妻は殺され、角太夫は改心した上で殺害される、とした方が、角太夫の哀れさないしは無念さ、そして天学の「諸悪の根源」っぷり、ともに引き立ったのではないでしょうか。人物のキャラクター分けをそこまで明確にすることで、より魅力的なコントラストも生まれ得たのではないか、と思います。


 この演目はいわゆる「遠山の金さん」です。天学の悪事の一部を「侠客の金次」が見ており、お白洲で天学を裁く遠山左衛門尉景元が刺青を見せて「実は金さん!」という、あれです。ワンパターンだし、筋があらかじめわかっているといえばこれほど皆が繰り返し目にしてきた締め括りもないのですが、テレビで幾度も見続けたそれを、生舞台で他の観客と共有してみると、大詰で展開されるおなじみの「形式」というものの強さは感じざるを得ません。「実は金さん!」となれば客席も舞台上も正しく盛り上がるし、クライマックスは晴れがましく納まる。


ワンパターンで皆がその先の展開を予想できているという状況は、とりわけ歌舞伎においては条件反射的な客席の笑いを呼び込んでしまったりという難点(ここでは難点としておきます)の温床でもあります。とはいえ、それだけで着地点を定めてしまえる、これをやれば確実にクライマックスに向けて盛り上がる、という定番の道筋を持つという点で、この「形式」というものは、最高の強みでもあるわけです。


そもそも、この形式の継承がなければ、それを逆手にとったり脱構築したりする面白みとかっていうものも生まれ得ませんしね。うがった目で見がちになって忘れてしまうこともあるのですが、形式に則った正統派の締め括り方というのは、やはりそれなりに快感なのですよね。
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