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~演劇とアイドルと何かと~

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紫電一閃矢島舞美

*秦組Vol.4『らん―2011 New version!!―』 前進座劇場 (2011.5.24)

 ハロー!プロジェクトのファンがハロプロの演者に信頼を寄せる点としてまず、踊れること・歌えること、すなわち“動ける”アイドルであるという要素があるでしょう。しばしばこの要素はAKB48プロジェクトを仮想敵として、ファンが自らの応援するアイドルを誇るためにも用いられます。そうした誇り方の妥当性はともかくとして現状、ハロプロはTV等のマスメディア露出よりもそうした、技術をバックボーンとしたライブパフォーマンスに長けた集団として歴史を紡いでいます。

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 一方、実はハロプロが継続的に興行を打っているものとしてもうひとつ、舞台演劇があります。“劇団ゲキハロ”としてハロー!プロジェクトあるいは母体となる芸能プロダクション・アップフロントエージェンシー(以下UFA)が表立って主導するものもあれば、体裁上他のプロジェクトに演者を預けて主演させるものもありますが、ともあれ舞台演劇という、また別種のライブパフォーマンスでもそれなりの歴史を有している。


 しかしながら、必然的に「アイドル演劇」的性質を帯びるこのジャンル(劇団ゲキハロ『三億円少女』のエントリ参照)において、ハロー!プロジェクトの打率、あるいは志はさして高くないのではないか、というのが個人的な印象です。

 目先の一定の興行利益目的で安易な基盤によってつくられた創作品をエクスプロイテーションという言葉で表現することがありますが、ハロプロの劇作については言ってみればハロヲタエクスプロイテーションの側面が決して小さくない。舞台にかかる芝居として「彼女たちである」以上の+αをさほど感じられないことが多い。そのこと自体は必ずしも悪ではありませんし、特定の層のみに向けたプロダクトだっていくらもあります(そうした閉じたシフトにはもちろんメリット・デメリットありますが)。

 ただ、ハロー!プロジェクトおよびUFAは、アイドルグループ卒業後のメンバーの進路として、舞台演劇もこなす女優(ないしタレント)という道を敷くことがしばしばあります。おそらくは商業演劇へのパイプも有しているのでしょう。それならば、ファンをエクスプロイトできるからといって舞台演劇としての求心力に乏しい企画を打ち続けることは長期的に見て、演者にとっても芳しくない結果しかもたらさないのではないか。ハロプロの舞台に関してはおおまかにこのような印象をもっています。

 端的にいって、その状況に対する解のひとつを提示してくれたのが、矢島舞美(℃-ute)主演作『らん』ではないでかと思います。彼女たちは、動けます。アイドルの原点的魅力である「身体の躍動」を、高レベルで体現できる人たちです。それならば、舞台でアクションを見せることは彼女たちにふさわしい身体表現ではないでしょうか。


 豪族の苛政に苦しむ農村が蜂起するべく頼ったのは、社会の最底辺、人外の身分にある赤谷の者たち。赤谷の少女・らん(矢島舞美)は、幼い頃に村に住む正太郎(中村誠治郎)に親切にされて以来、正太郎を思い続けている。一時的に豪族への叛乱に成功した村人たちは、平素疎んでいる赤谷たちを厄介払いしようと目論む。正太郎のためにと赤谷を引っ張り農村に加勢したらんも、正太郎が思わせぶりつつ半端な態度でしかいないことを知り、結果、赤谷の人々はわずかな報酬を手に谷へ帰ってゆく。帰路、らんは退却した豪族が村に襲来してくることを察知する。


 主演の矢島舞美の芝居は、決して巧くありません。また、おそらくは℃-uteのコンサートと時期が近接していたこともあって、練習参加への制約もあったのではないかと思われます。茶目っ気多めに造形された少女・らんの演じ方が舞台内世界に今ひとつ馴染んでいない。その点、主役である彼女が出ているシーンの方が場としての印象が薄くなるところも少なくありません。現状の彼女の環境、キャリアとしてはここがひとつの限界なのでしょう。

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 しかし彼女の真骨頂は最終盤。揚幕から登場(会場の前進座劇場は普段前進座が歌舞伎興行をやったりしているので花道が常設されています)し、多勢を相手にした殺陣のシーンが始まるとその存在感は際立つ。もともと筋肉質で動きにキレのある矢島が最も光り、主役としての説得力を見せつけます。
 もちろんのこと、立ち廻りの技術に長けているというタイプではありませんが、立ち振る舞いの姿は鮮やかで、これこそハロプロの底力ということなのだろうなと。それまで主役的なエピソードを与えられながらももうひとつ輪郭のぼやけていた彼女が、ここにきて急激に大きな華を表現する。ヲタ相手の商売を超える価値をもつ可能性が垣間見えた瞬間でした。この立ち廻り、アクションの多用こそ、動けるアイドル集団たるハロプロが演劇を続けるにあたって大きなヒントになるように思います。


 それに関連して大事なことは、この秦組というチームが矢島を「アイドルグループ・℃-uteの矢島舞美」として扱っていないことです。アイドルを主役にした演劇でありがちな、その人のアイドルとしての立場をネタに織り込むことももちろんなく、単に主役をあてられたひとりの役者として起用している。だからこそ「アイドル」でさえあればいいというエクスキューズもなく、他の役者に比べて技術が劣る点もそのままむき出しになりますが、この環境はむしろ当人にとっていいことですし、観ている方としても清々しさを覚えます。矢島舞美のポテンシャルを考えれば、ソロになる日のために重要な研鑚であると思います。


 脇を固める役者陣が手堅いのも頼もしい。特に目立つのは、らんをはじめとする赤谷の一族を疎み、私利を優先させる村長親子を演じた清水宏と丸尾丸一郎。
 清水宏をかつて小劇場でみた際には、クセのいささか強過ぎる、いってしまえばクサ過ぎる演技がひっかかったのですが、前進座劇場のキャパシティで、大きな持ち場を与えられると途端に輝きます。ほとんどスタンドプレイでクドめの客いじりを行なう場面もあるのですが、それが意外にすんなり見れてしまうのは空気作りの巧さ。ワンマンショーの場面をつくれることと前述のクサ過ぎる性質とはおそらく紙一重、というか同一の要素から成り立つものなのだろうなと。

 またその息子役、新たに村長に就き、矢島演じるらんに終盤、対峙する敵・弥之助を演じる丸尾丸一郎も充実した客演ぶり。丸尾は本ブログでも幾度か取り上げている劇団鹿殺しの作家/俳優ですが、この役は彼が鹿殺し本公演で描く人物造形といくらか通じるところがあるように見えました。鹿殺しで彼が描く人物/彼が演じる役は、自身の怠惰や空回りから半ば目を逸らし、半ばは気付きつつ、およそ現実味のない夢を追い続ける。それは単に不遇として描かれるのではなく、当人のうまくやれなさ、自堕落と紙一重の姿をも見せられるから、痛々しくも素晴らしい。
 今作で丸尾が演じる弥之助も、許嫁でありながら弥之助に一切心を開かず、正太郎に惚れているお綾(工藤里紗)を追いかけつつ、一方お綾に嫌われ続ける理由もまた自身の私利を優先した言動の内にある。正太郎の存在を抜きにしてもお綾に疎まれる要素は自身で生み出しているのだけれども、それでもそこに弥之助なりの論理があり、お綾を追い続けるひたむきさそのものに偽りはない。この哀しい人物造形とそれに応える丸尾の演技は芝居自体に奥行きを与えています。


 矢島舞美という存在がアイドルゆえに主演を張っているという面はまだまだ払拭できるものではなく、一般の演劇ファンに訴えるには課題は多い。しかし、少なくとも安易なエクスプロイテーションではないものを創作しようとする姿勢は確実に感じられるし、キャリアとして矢島がこの舞台に立つことに大きな意味を感じさせます。エクスプロイテーションで何をやっても一定数のヲタが来てくれる。だから安易な企画でいい、のではなくて、だからこそ実験ができる、のです。今回は昨年初演したものの再演ですが、彼女がしっかり稽古期間をとっての再々演もみてみたい。繰り返される意義のあるアイドル主演舞台であろうと思います。



 
*喜劇『ハムレット』&悲劇?『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』 
 渋谷区文化総合センター大和田 さくらホール (2011.5.25)


 さて、他方ハロー!プロジェクトの大看板、モーニング娘。のエース高橋愛はジャニーズ事務所所属の長谷川純を相手役に、シェイクスピアの『ハムレット』およびトム・ストッパードによるハムレットのスピンオフのような『ローゼンクランツとギルデンスターンは死んだ』を併演する企画に出演しています。

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 他の共演者にTHE CONVOYの瀬下尚人、ダンサーの小林十市、斉藤レイ、あべこうじ、日替わりでよしもとのお笑いコンビ5組。キャストを知った段階では統一性は見えませんし、『ハムレット』と『ローゼンクランツ~』とがどう融合されるのか、されないのかもまだわからない。この一見して感じるまとまりのなさはどちらへ転がるのか。


 結論からいって、そのまとまりのなさは劇にそのまま反映されています。一幕目が『ハムレット』、二幕目が『ローゼンクランツ~』と完全に分離して公演を行なっていますが、そのようにシンプルに構成したことでまとまりが出るものではありませんでした。

 演者や演出家にその責を問うのは酷でしょう。それぞれは与えられた持ち場でできうる限りのことをしていたと思います。企画を立てる側にどこまでの計算があったのかなあというのが、いちばんの疑問点です。ハロー!プロジェクト、ジャニーズ事務所、吉本興業という大看板を揃え、モーニング娘。のエースである高橋愛を主要キャストに据えればどうにかなる、という有機性を無視した企画で押しきったように見えて仕方ありません。


 基本的に一幕目は『ハムレット』の戯曲のみで進行しますが、劇のトーンが全体を通して一定にならない。どこからの指示かはわかりませんが、おそらくは良かれと思って、それぞれのキャストのファンへのサービスとして、主要役柄を演じる演者たち個々人にあてた見せ場が挿入されています。
 瀬下のタップダンスはともかくとして、小林十市が落語仕立てでエピソードを語るシーン(小林は祖父に五代目柳家小さん、弟に柳家花緑をもつ家柄)は当人の本業ですらなく、また芝居全体の中に溶け込むシーンでもありませんでした。それらがノイズともなっていて、『ハムレット』を上演し、ストーリーが展開しながらも、一本の流れが見えにくくなっています。


 個人的に最も疑問が強かったのは、高橋愛(オフィーリア役)が中心となって踊るシーンの振付に、モーニング娘。の(高橋が加入していなかった頃の)代表曲のひとつ「恋愛レボリューション21」の振りが引用され、繰り返されていた箇所です。

 とかくアイドルを主要キャストに据えた演劇では、そのアイドルの代表曲を小ネタにするような演出はなされがちです。それはそれで有効になる類の舞台もありますし、そのことを否定するものではありません。ただ、高橋愛は秋にモーニング娘。からの卒業を控え、その後のルートとしておそらくは安倍なつみラインに近い、商業演劇にも活路を見出す路が敷かれると予想されます(卒業直後には帝劇の『ダンス・オブ・ヴァンパイア』出演を控える)。それに向けて、モー娘。在籍時に決して多いとはいえない舞台経験、そしてその多くがハロプロ内の「身内」舞台だったことを考えれば、もういい加減、舞台活動としては「娘。」の看板を外したブランディングを準備してあげるべきでしょう。せっかくのハロプロ外舞台なのですから。

 かねてより宝塚歌劇をはじめ、舞台演劇を嗜好する高橋ゆえ、せっかく商業演劇へのパイプをUFAが持っているなら、彼女をいかに育てるかで、後続のためにも好例をつくり得るはずなのです。こうした企画や身内舞台を続けることが長期的ビジョンとしてプラスに働くとは思えない。エクスプロイテーションならばそれでも良いでしょうが、平日とはいえ大看板をこれだけ揃えて百数十名程度の入場者ではそれも成立しない。視界を拓く可能性を見せた『らん』に比して、より拓く必要のある高橋愛の舞台企画がこれではなかなか希望を持つのは難しい。


 高橋愛は上述の矢島舞美に比べれば演技自体は遥かに巧い。それは間違いありません。しかし、それは商業演劇を主戦場とする人たちならば誰もが持つ巧さです。単に略歴上の舞台経験を一行ずつ増やすだけでは、彼女の俳優としての「面白さ」は育っていかないように感じました。


 舞台としての最良の発見はあべこうじ、そしてこの日のローゼンクランツ&ギルデンスターン役を務めたチーモンチョーチュウ。お笑いのネタを上演するというのは、シチュエーションを現前させてそこにリアリティを持たせるという作業の連続でもあるわけで、それを考えれば自然なことではあるのですが、演技の安定感が素晴らしかった。あべこうじは複数の役をこなしながら、それぞれのキャラクターに器用に合わせる技を持っている。また『ローゼンクランツ~』で主演を務めたチーモンチョーチュウも、芝居の性質上二人のフリーにネタ披露できる時間が多いとはいえキレはよく、またそれなりの哀感を漂わせて終わる。皆が共倒れになった感のあるこの芝居で、あえて得をしたキャストを探すならば、あべこうじとチーモンチョーチュウかもしれません。

ドキュメンタリーの反転としてのフィクション

*吉川友“生”出演主演映画『きっかけはYOU!』上映&スペシャルミニ・ライブ シネマート新宿 (2011.4.30)


 今日のアイドル、とりわけ「アイドル戦国時代」という繰り返されてきた惹句の範疇に入るアイドルたちが手掛けられる際、常套となっているのが“物語を紡ぐ”こと、そして“素を垣間見せる”ことへの自覚です。AKB48に見られる、メンバー間の関係性や序列の可視化を通して彼女たちが背負っているストーリーを受け手に想像させ、またそうした運営の方針に翻弄される彼女たちの素の身体やメンタル(と思しきもの)を晒すそのやり方は象徴的なものといえるでしょう。秋元康が「AKB自体がドキュメント」と語るように、アイドルが「事件」(往々にして運営が仕掛ける)に直面し、そこに彼女たちの「素」の姿、リアクションがあらわれるというコンテンツのあり方は、ドキュメンタリー性を強く打ち出したものといえます。スキャンダルやメンバーの不意の脱退という計算外の出来事も、周到にドキュメンタリーの文脈に織り込んでゆくしたたかさを持つことは、アイドル運営に関してひとつのリテラシーになってさえいるようです。

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 さて、本作の『きっかけはYOU!』に特徴的なのは、そうしたドキュメンタリーを紡ぐしたたかさ自体を、反転したやり方で批評してみせていることです。アイドルプロデュースの常套としてAKBなどの“パッケージから漏れ出るドキュメンタリー性をパッケージして提示する”方法があるとするならば、『きっかけはYOU!』は逆に“ドキュメンタリーそのものもまた主観や計算を通じた作為的商品であることを、フィクションを通じて見せている”といえるでしょうか。


 ハロー!プロジェクトの研修制度である「ハロプロエッグ」研修生のうちでも際立った存在感を示し、MilkyWay等のアップフロントグループ内ユニットにも参加していた吉川友。ハロプロファンの間では評価も期待も高かった彼女はしかし、ハロー!プロジェクト内で円滑なデビューに至ることはなく、昨年末に「ハロプロエッグ」の研修課程を修了します。最近の例を見る限りエッグ研修課程の修了は必ずしもプロへのスタート地点ではなく、むしろ今後の方針が不明確のままに置かれることも多いのですが、吉川友に関してはレコード会社をUNIVERSAL Jに移してデビューすることがすみやかに決まっていました。映画は冒頭、吉川友が突然デビューすることを知らされ、UNIVERSAL Jのスタッフを前に困惑するところから始まりますが、ここに至る伏線は実は映画外で張られていました。


 吉川友デビューにあたってプロモーション側では、彼女のデビュー準備やレッスン、レコーディング風景などを追う短編の連続ドキュメンタリー「きっかチャンネル」を制作しネット上に公開していました。饒舌なナレーションとテロップによって吉川の様子を映し出すそれはまさに、テレビ番組『ASAYAN』が往時、モーニング娘。に関して行なっていた手法であり、アイドル活動にサイドストーリー提示を連携させるドキュメンタリーとしてはきわめてオーソドックスなものでした。
 本作『きっかけはYOU!』もそれを引き継ぐように開始直後、「きっかチャンネル」の映像がそのまま使われます。突然のデビューを知らされ、うろたえる吉川。
 と直後に「カット!」の声。カメラのアングルが切り替わり、吉川を捉えるカメラ。音声スタッフ等を含めた引きのショットが映し出される。つまりここで提示されるのは、本作が「きっかチャンネル」で映し出される“ドキュメンタリー”制作の裏側をさらにもう一枚外側から捉える、メタドキュメンタリーである、という暗示です。

 しかしその認識は直後に裏切られる。「きっかチャンネル」制作を追っているかのような風景は妙に芝居がかっている。始めはドキュメンタリーを追うドキュメンタリーであるかに見えたカメラアングルも、リアリティを超えたアングルに切り替わる。しまいには、吉川の売り出しに悩むスタッフの声を角越しに吉川が盗み聞くシーンが複数のカットで表現される。
 つまりこれはここで明確に「劇映画」となります。「きっかチャンネル」という現実に進行しているプロモーション用ドキュメンタリーを制作する裏側を、フィクションによって描いているわけです。劇映画の制作風景をドキュメンタリーとして描くというのはよくあるものですが、ここではそれが反転している。この混ぜ返しは試みとして興味深い。


 ここに見られるドキュメンタリーへの批評的視点は、いうまでもなくAKBのようなドキュメンタリー性を打ち出す戦略への距離感の表現であり批評です。ここに象徴的に見られるように、この映画のスタッフはアイドル界の現状を読み込みそれに回答することに自覚的です。映画は「きっかチャンネル」をはじめとする、吉川友のプロモーションをいかに成功させるかをテーマとして進行しますが、その中で同じレコード会社所属となるアイドルグループ・ぱすぽ☆との対立構造を展開しようと打診する人間も登場します。「戦国時代」にしばしば見られる、アイドルグループ同士の対抗的構図を煽る戦略に対し、劇中の吉川友側スタッフは明確な拒否を示します。また、シンプルに正統的に彼女の魅力を打ち出そうとするスタッフに対し上司は、通り一遍の売り方では無理、とギミックの強いプロモーションを推す。いずれも昨今の女性アイドルグループの状況を仮想したものでしょう。その中で、吉川友という現実に存在するアイドルを売りだすための試行錯誤を、あくまで劇映画として見せ続ける。

 このあやういバランスでの設定は挑戦に他ならないですし、やはりそのことには賛辞を贈りたい。あくまでフィクションの台詞として吉川がつぶやく、「何が演技でどれが本当の自分かわからなくなってる」というフレーズが、この映画のスタンスをあらわしています。



 しかし、ここまで書いてきたことでも見てとれるようにこの設定自体が、考え抜かれたうえの重層的なギミックではあります。心意気はおおいに買っていますが、この設定にした結果、吉川友の正統派な魅力を語るうえで大きな障害も生まれたように思います。
 もっとも気になったのは、結局映像内に限ってはすべての出来事を劇映画、つまり「フィクション」として回収してしまったゆえに、実際の「きっかチャンネル」では吉川自身の感動的な成長エピソードたりえていた部分まで「お芝居でした」と結論づけてしまう格好に、結果的になっていることです。


 「きっかチャンネル」の山場のひとつとして、レコーディングに臨む吉川が音楽ディレクター(michitomo氏)の要求に応えきれず葛藤し涙するシーンがありました。「きっかチャンネル」ではその続編に、ディレクターのアドバイスを受けて再度レコーディングに臨んだ吉川が前回とは明確に違う表現力を身につけディレクターが感心した表情を浮かべる場面があり、それはオーソドックスとはいえ吉川友の成長やアイドルとしての魅力を伝えるドキュメンタリーとして秀逸な瞬間になっています。
 しかしそのシーンの「裏側」という体裁で、吉川が落ち込んでいるシーン、また次回のレコーディングに臨み表現力を身につけるシーンを「劇」として提示されてしまうと、あの秀逸なドキュメントの瞬間を「フィクション」として着地させているように感じられました。あまつさえ、その「フィクション」部分に実際の「きっかチャンネル」の映像が接続されることで、受け手が吉川友に見ているひたむきさは演出である、と宣言しているかのように映ります。

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 ドキュメンタリー的なアイドルプロモーションは確かに飽和状態であり、その状況に一石を投じる姿勢は非常に面白い。しかしまた、ドキュメンタリー的手法が飽和するのは、それがアイドルの魅力を伝える方法として効果的だからでもあります。そこにアイドルの「素」の姿を見出すことは、ファンの非常な喜びであり興味の持続でもある。現状認識を踏まえて練りに練った結果、シンプルな吉川友の「素」(らしきもの)は見え難くなったように思います。
 パンフレットには、その中で「リアリティ」を追求し「リアルな吉川友」を伝えることを心がけたと謳われています。しかし、「きっかチャンネル」で見せた「リアル」さえ「フィクション」として着地させてしまうことで、本作の(映像パートにおける)吉川友はまだ「素」を見せてくれない、フィクショナルな吉川友であるように映りました。

 新たにレベルの高い課題を課された際に吉川が講師を前にして吐く露骨な弱音は、およそハロー!プロジェクトというプロフェッショナル集団で研鑽を積んできた人間が発するものとしてリアリティはありません。この弱音は明確な演出、芝居ですが、このフィクションの中で「リアルな吉川友」を伝えたいというならば、こうしたディテイルには気を遣うべきかと。この映画は最終的に吉川友の魅力を信じて、“プロモーションの文脈作りのためにわざと本人の能力より劣ったことをやらせるという不誠実さに対してNOをつきつける”という場面があります。その映画自身が、この弱音の件りではまさにそういう不誠実をやってしまっているのではないか。
 この映画中でマネージャーが吉川の性質を察してつぶやく台詞「きっかは俺らが思ってるよりよっぽど強いんだね」は残念ながら、言い方は良くないですが陳腐に見えました。


 しかしやっぱり、吉川友という最高の素材には、希望を託すことこそふさわしい。上述した映像パートの不備は、結局は吉川友という人間の身体によって脇に押しやることができる、と思います。この映画は吉川友が実際に映画館で行なうライブと連動しています。
 映画終盤、業界内の“きたなさ”が露悪的に表現され、それに対峙する吉川。その回答としての映画館での生ライブ。スタッフが「アイドル戦国時代」を批評すべく考えに考え抜いた映画プランも、そのプランによって吉川の「正統派」のスタイルがいささか曇ってしまったことも、映画終了と同時に始まる彼女のライブで瑣末なものに転化してしまえる。そこに彼女の素材の良さ、天性の華はあります。
 
 また、映像作品としての捻り過ぎなスタイルを度外視して、この作品に映る彼女の姿は本当に美しい。率直にいえば、彼女自身がステージに生で登場した瞬間よりも、スクリーンの中の方が彼女の魅力をずっと雄弁に語っていました。レッスン着のスタイルのまま葛藤する表情のアップ、夜の街路沿いでコートを着たまま踊る彼女のシルエット。そして、生ライブが挿入されたのちに流れるスタッフロールでの彼女の“本当の”オフショット。

 その姿だけで充分にアトラクトできるのだから、もうそれこそ「戦国時代」を意識し過ぎた演出プランなんていらない。そもそもグループアイドルが主な範疇である「戦国時代」を、吉川友サイドが意識することはどこまで有効なのかも疑問ではあるところ。映画全編を通じてのテーマは、ギミックに拘泥せずに、吉川友の魅力をシンプルにオーソドックスに伝えること、伝えるべき彼女の魅力を信じることです。ならば捻りに捻った映画プランではなく、彼女の素体を自信を持ってストレートに提供することがここからの課題ではないでしょうか。それこそが、彼女の魅力を信じる、ということでもあるでしょう。

もっとアイドルを

*『GIRLS PRISON OPERA』 中野テアトルBONBON (2011.4.1)


 このブログでは時折、アイドルが出演する演劇に触れています。
 昨年ならばBerryz工房主演の『三億円少女』や安倍なつみ主演『安倍内閣』、あるいはその前年のAKB歌劇団『∞・Infinity』、亀梨和也『DREAM BOYS』等々。アイドルがメインキャストを張る舞台といってもその立ち位置やアプローチはまちまちなのですが、上記した例はさしあたり、メインキャストの本業(歌ものアイドル)の知名度を活かし、端からアイドルたちありきで企画が進められ、また芝居の性質としても「アイドルありき」が表立って明示されるものと言っていいでしょう。それらは比較的キャパシティの大きな商業演劇用の劇場で興行が打たれることが多く、アイドルの舞台といった時に想像されやすいものでもあります。

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 しかしまた一方で、アイドルが主要キャストとして配役されながらもそのことが表面上第一義的な売りとはされず、作・演出者のコンセプト主導の体裁を持った演劇もまた少なくありません。そうした芝居ではしばしば、上演告知のフライヤーでも特定のアイドルを強調せず、あくまで演劇としてのコンセプトが前面に出されます(フライヤー表面には出演アイドルの写真さえ載らないことも多い)。この点で先の段落で触れた類の演劇とはタイプを異にします。

 収容100~200人ほどの小劇場で行われることの多いそうした種類の演劇はしかし、出演するアイドルを他のキャストに比べて幾分特権的な位置には据えていて、動員のための核にしている様子がうかがえます。演劇の興行を打ちたい側にとっては手堅い動員と華を見込むための招聘であり、アイドル及びアイドルの事務所側にとっては「アイドル」期以降のためのキャリアアップ戦略として、演技歴が乏しくてもキャスティングを実現させうる規模の作品に参加させてもらい、経験と「経歴」を積む。芸能事務所にとって“金”になりづらい仕事であろう小劇場公演へのアイドル派遣は、そのような両者の意図が交錯するものではないかと推測します。


 率直に言ってしまえばこの種類の演劇の場合、主演するアイドルの知名度あるいは演技力に頼った宣伝で一点突破できるかどうかは難しいところ。それはアイドリング!!!、AKB48、SKE48というマスに訴えうる各アイドルグループからメンバーが招聘された今作でも、百数十席×10公演のキャパが即完売にはならなかったことからもうかがえます。少なからぬファンにとって、彼女たちの小劇場での演劇活動は是が非でも馳せ参ずるような「現場」ではないのです。
 そうした中でアイドルを第一義的に打ち出す、つまり当該アイドルに興味のない演劇ファンを排除しかねない宣伝の方針は、プロデュース側の今後の発展を考えても好ましくないはず。また、こうした公演にはしばしばアイドル、もしくはアイドル的ポジションで人気を得ているタレントが複数配役されるため、その各演者のファンを呼び込むためには一人のアイドルに重点を集中させない方が良いということも考えられます。作・演出のコンセプトを第一義に据えるということが当初からの方針であるのかもしれませんが、アイドルをどこまで表立って打ち出すかのバランスのとり方は簡単ではなさそうです。

 いずれにしても主要キャストを芝居経験の少ないアイドルが務める以上、演者の巧みさによって劇全体のレベルを高水準のものに持ってゆくという方向性は容易でなく、手堅い演劇として受容されるためには物足りなさが大きく残ります。また、演者の個が没してしまうほどの特異な演出、上演法がとられているわけでもない。それならば演者をどのように活かすか。それは舞台上における「アイドル性」の強調だと思うのです。

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 女子少年院「のぞみ女子学園」の園長・福田(森田亜紀)は、施設内の少女たちに活力を与えるため、彼女たち自身にオペラを上演させるプランを発案し、甥でヴィジュアル系バンドのヴォーカルをしている直樹(加藤慶祐)に彼女たちの音楽講師になるよう依頼する。バンドが契約の危機にある直樹は、オペラの知識は皆無だが再起のためのレコーディング費用目当てに依頼を受け、同様にオペラなどまるで知らない女子少年院の少女たちと、二週間後に控えた学園祭に向けて練習をしてゆく。


 女子少年院に入っている少女たちの生育環境、バンドのヴォーカルをしている直樹の名声への誘惑とやりたいこと・やるべきこととの間の逡巡、そしてオペラ上演に反対するのぞみ女子学園副院長・乱鳥と少女たちとの確執を軸に話は展開します。女子少年院というモチーフを扱い、彼女たちが抱える屈折を描いてはいるものの全体的に掘り下げ方はシンプルで、このテーマを扱うことの難しさやわりきれなさを掘り下げるというよりは、比較的わかりやすい感動へと導くつくりになっています。

 ならばテーマ性に関しては「それ相応」の水準で受け止めることしかできないわけで、それを芝居のいちばんのポイントとして押すのはちょっと弱い。そこでこの座組みにおいて芝居の魅力を最大限に押し出すならば、キャストのアイドル性は重要事項だと思うのです。

 男性キャストの華は一方の主役であるヴォーカリスト・直樹役、加藤慶祐です。長身でルックスの良い彼の立ち居振る舞いはやはり目を引きます。名声をとるか「やるべきこと」をとるかで逡巡するさまを表現しえていたかといえば大いに不十分で、感情のうつろう様子は見ていてもわかりづらかったのですが、落ち着いて構える演技は安定感(≠巧みさ)があり、劇の見栄えを支えていました。

 一方、女性キャストには加藤よりもマスメディア露出の多いアイドルグループのメンバーが複数出演しています。女性キャストの主役にアイドリング!!!の森田涼花、その脇を固める女子少年院の仲間としてAKB48の野中美郷、SDN48の畠山智妃。グループとしてはAKB48のプロジェクトが群を抜いていますが、個々のネームバリューからすれば森田の主役ポジションは妥当でしょう。

 核になる森田涼花は総体的には演技が巧いというわけではありません。中心的な位置づけこそ与えられていますが、彼女がいるだけで目を惹くというものでもない。ただ一点、終盤に涙をためながら独白する場面の彼女の表情は強い吸引力を発していました。それまでの演技や物語の粗を一旦保留にして陶酔させる強さがある。アイドルの力はここにあるなと思いました。考えてみれば、文脈を保留にして瞬間の情感に酔う、というのはたとえば歌舞伎を見ていればごく普通にあることですしそれを理屈としては理解してもいたつもりですが、アイドルが専門でない舞台に立つ際に生じる瞬間的陶酔を目の当たりにするとまた別種の感慨があります。

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 しかし、そこに持ってゆくまでの展開には、もうひとつ乗れないところもまた多かったと思います。女子少年院の少女たちのトラウマは劇中で次々説明されますが、そのトラウマゆえに○○のような屈折を抱えている、というところまでが充分に描かれているように見えず、悪く言えばただのエピソード紹介にもなりがち。それらの克服を含んだクライマックスのオペラ上演へというようには受けとれませんでした。即席の音楽講師となった直樹と少女たちと関係が割合すぐに理解し合う良好なものになっており、オペラを作品として成立させるための格闘はさほど描かれない。講師も生徒もド素人であるという設定が活きていないように思います。もっともこれは、オペラ上演に反対する副学園長との対立を主眼に据えたためでしょう。この取捨選択により、ドラマはシンプルな対立構造とその克服に力点が置かれることになりました。専業俳優でない演者が多い以上、致し方ない判断かもしれません。副学園長・乱鳥を演じた重松隆志の重量感がこのエピソード、そして劇全体を支えていた感がありました。


 もう少し細かいところとしては、直樹のバンドの相方・光弘(有馬拓人)との信頼関係がほとんど他人による説明台詞ばかりで描写されていて実体が見えづらいこと、また商業主義の権化的に描かれる事務所社長がセルアウトのために企画したのが「ヴィジュアル系バンドを切り捨ててヘビメタバンドをデビューさせる」という、ちょっと現実的に考えにくいアイデアであること(セルアウトしたいと思うならチョイスはヴィジュアル系の方だと思います)、そもそも少年院で上演されるあの作品に「オペラ」の名を冠し続ける理由がよくわからないこと等々ありますが、こうした諸々の粗は緻密さで埋めるよりも、アイドルの華を見せることで覆ってしまう方が即効力はあるかもしれません。そのために衣装やヘアメイク等をもっと、アイドルとしての華を見せるようなスタイリングにしたものも見てみたいなと。女子少年院という設定上、普段着のジャージもオペラ上演時の全体的なスタイリングも地味でサイズも野暮ったいものでしたが、舞台上に興味を向け続けるためにはそうしたリアリティを無視してしまうような嘘は有効ではないかと。それこそラストは思い切りアイドルのステージとしてつくっていい。


 このジャンルはアイドルを主要キャストに据えた演劇のうちでも、宣伝、舞台演出の両面でバランス配分が特に困難なものであろうと思います。しかし、どうせなら舞台上だけでもアイドル性を強く押し出すことをまず丁寧に考えてみてはどうでしょう。アイドル性による瞬間的な陶酔で作品の粗を覆ってしまえるという利点もありますが、またアイドル性の確保がそのまま作・演出者の作家性を後方に追いやってしまうことにはならないと思うのです。

ドキュメンタリーをドラマする

*映画『DOCUMENTARY of AKB48 to be continued
     10年後、少女たちは今の自分に何を思うのだろう?』 TOHOシネマズ日劇 (2011.2.1)


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 現状のAKB48の特徴のひとつとして、AKBに関心の薄い人々からのみならず、アイドルファンからも批判や揶揄を被りやすい、ということがあります。かつて稲増龍夫氏が著書『アイドル工学』のなかで、たとえば「同じ「売れる」音楽でも、ロックは受け手側からの自然発生的な支持が「売れる」音楽を生んでいるのに対し、アイドルは送り手側の商業主義的仕掛けが「売れる」音楽を生んでいるという」ような対比をあてはめられがちであることについて指摘していました。これは社会学者としての稲増氏の考察であると同時に、アイドルファンとしての氏の、ひとつの擁護のあらわれでもあったでしょう。しかし今日、AKBに関していえばその「商業主義的」姿勢を、当のアイドルファンたちからも叩かれやすい状況にあるといえます。

 ここ1~2年の知名度、支持の上昇という時流にのって、地上波テレビ、雑誌、書籍といったマスメディアにおける露出は飛躍的に(過剰なほどに)拡大し、他のアイドルグループとは次元の異なるプロジェクトになっていることは確かです。そうした露出度の高さは、「業界」間に特有の駆け引きの結果である(と想像させる)わけですし、その力関係や物量作戦、あるいはもはや安易なクリシェとなった「AKB商法」的要素は、アイドル全般に関して擁護的な視点を持ちやすいアイドルファンからも否定的に受け止められることが少なくない。その意味で、先述の稲増氏の言のうちの「アイドル」という単語は現在、「AKB」というワードに置き換わっている感もあります。


 とはいえ、そうした揶揄的視線に埋もれないのがAKB48の強靭さでもあります。そもそもただの物量作戦のみで繋ぎとめられるほど、観客は受動的で無批判な存在ではありえません。“再組閣”“総選挙”“じゃんけん選抜”に象徴的な、受け手の興味を持続させるための周到な「事件」作り・文脈作りは、少なからず過去のアイドルに対してなされてきたプロデュースを取り入れつつ確実にアップデートしたものです。そうした文脈がAKBを運営する首脳のディレクションによるものであるのは当然ですし、受け手もそこに無自覚ではない。かといってそこで発生するドラマは当事者すべてにとって予定調和な行事ではなく、活動主体であるアイドルたちは行く先の知れないストーリーに翻弄されるよりありません。このことが生身の彼女たちに苛酷な負担を課しているという事実を一方で忘れるべきではありませんが、これがAKBの大きな求心力として働いていることもまた間違いないわけで。
 さらにAKBというプロジェクトの巧妙さは、たとえばメンバーにスキャンダルが浮上した際に、それを封殺するでも否定するでもなく、その疑惑自体について即座に自己言及し、文脈の中に組み込み、AKBの物語の一部としてしまうところにあらわれます。プロデューサーの秋元康が「AKB自体がドキュメント」と表現するように、悪評も不測の事態も飲み込んで露悪的なほどにそれをドキュメンタリーとして提示(≒ネタ化)してしまうところに、AKBというプロジェクトの求心力はあります(加えて、個人的にはAKBが有するスタイリッシュさも若年層に訴えるポイントとして重要だと考えますが、論点が散漫になるのでここでは省略)。

 そのAKB48の提供する「ドキュメンタリー」映画とあれば、期待値は低くありません。事前に予告編的にテレビ放送されていたAKBのドキュメンタリー番組では、チームKのリーダーであった秋元才加のスキャンダル発覚に関する生放送での釈明、謝罪、リーダー辞任発表までを映像で見せ、上述したAKBの真骨頂を垣間見せていました。それを受けての本篇公開、舞台挨拶ではAKB48本体のリーダー格・高橋みなみが「AKBを嫌いな人にも観てほしい」と述べています。「事件」作りへの期待は高まります。

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 結論からいうと、そこに「事件」性もわかりやすい露悪性もありませんでした。なるほど、「再組閣」や「総選挙」などの“波乱”は踏まえられ、その中で逡巡し、また自身の位置取りを冷静に受け止める彼女たちの姿は存分に描かれている。「彼女たち自身の言葉」のようなものも、この映画には溢れている。にも拘わらず、なにか肩透かしのようなものを感じました。
 あるメンバーは、自分がトップになることはないという認識を踏まえて、それでもその中で生き残る場所を見つけようとする自己を冷静に語る。あるメンバーは活動拠点の東京の喧騒を離れて地元に戻り、旧知の人々と再会して「素」の姿を見せる。まごうことなき生の彼女たちの身体があり、言葉がある。それでも、素直にそういうものとして受け取り難い違和感が拭えない。


 ドキュメンタリーで「素」を垣間見せるというのは、普段のアウトプットの中ではパッケージングされていない、「製品」から漏れた部分をあえて見せる、ということでもあります。この映画に感じる違和感のもとにあるのは、そもそも普段のAKBとしてのアウトプットの中ですでにそういう裏側を、それこそ露悪的に見せていることからくるものでもあるでしょう。
 たとえばテレビ東京系『週刊AKB』においては、“不人気”メンバーの“不人気っぷり”を率直に見せ、ファンとの握手会で可視化されてしまう人気格差を前に当該メンバーが明らかに傷つき、そのことに対してうまい言葉も見つからずただ動揺する様子を晒してみせます。それはエンターテインメントとしてパッケージングされているとはいえ、すべてのメンバーが同じようにサバイブできるわけがないという事実を暗示するものでもあって、秋元康のいう「AKB自体がドキュメント」はまさにこのように日常的に提供されている。そうである以上、この映画の中に見えるような「ただの“素”の姿」には目新しさはない。というより、却ってドキュメンタリー性を薄めているようにも思われました。


 ドキュメンタリー性の希薄さは、この映画を通しての撮り方にもあらわれます。構成として特徴的なのは、映像の割合として、活動に密着してのドキュメントよりも、この企画のためにあえてセッティングしたインタビュー等が使用されている時間の方が長いということです。普段の活動の合間にこぼれた声や表情を拾うのではなく、場を整えたカジュアルな個別面談の連続は妙にきれいで、ドキュメンタリーと謳っていながらむしろ虚構性が強く感じられさえする。


 虚構性の強さはたとえばメンバーたちが談笑するシーンにも顕著です。冒頭、メンバーが食事をとりながら談笑している場面。いかにも他愛のない、日常を切り取ったような会話。ではあるのですが、撮り方は明らかに「ドラマ」です。カメラは彼女たちが座るお店のテーブルの周りを旋回しながら、おそらくはレールを用いたドリー撮影によって順々に彼女たちの姿を捉えている。また、メンバーが次にとるポーズを明確に把握していないと押さえられないカットも挿入される。つまりこれは、ドキュメンタリータッチの場面をあえて構築したドラマ、のようなシーンです。


 この彼女たちの、自分の言葉で語っているには違いないが、想定以上の何か、セッティングされたもの以上の何かが垣間見えることの少ない状況は終盤まで続きます。インタビューされるメンバーの順番や人選にかすかなストーリーらしきものも見えてはきますが、既定の線路からこぼれおちる何かは見出しにくい。彼女たちを応援するファン目線でみれば堪能できるものではあると思いますが、ファンではなくAKBについての知識の少ない人間が急に観て強いインパクトを残せるか、というところには多少の疑問符が付きます(「ファン向け」を裏付けるように、この映画は非常に説明不足です。再組閣、旧チーム千秋楽、総選挙、ひまわり組といったトピックが説明なしに画面にあらわれ、またインタビュー中に言及されるメンバーのフルネームと顔を一致させてみせるような注釈にも欠けています)。


 普段のAKBに比してドキュメンタリー性の希薄なこの「ドキュメンタリー映画」はあたかも、「アーティストの素顔を垣間見せるドキュメンタリーってこういう感じのことやって感動させるんでしょ?」という悪意をもってパロディ的につくられているかのようでもありました。いや、通常ならばそこまで穿った見方はしないと思うのですが、普段あそこまで秀逸且つ露悪的、また残酷なドキュメンタリーを「AKB48」というプロジェクトの総体を通して見せ続けている首脳がここまで、いってしまえば踏み込みのないドキュメンタリーをつくると思えないのです。


 ことわっておきますが、アイドル好き・AKB好きとして、単純に彼女たちの躍動する姿、生の身体を堪能できる映像ではあります。楽しいです。しかし一方で、たとえば渡辺麻友がインタビューの区切りでひと休みしながら背伸びして見せる姿はいかにも「素を垣間見せるアイドル像を教科書通りに演じている」かのようで(そもそも彼女はそういう個性の人ではありますが)、妙な座り心地をずっと感じるものでもあったのです。きわめてきれいに整えた映画を前にそう感じてしまう、ということ自体がすでに秋元康・AKB首脳の術中なのだ、と思うといささか悔しくもありますが。

「ポスト・アイドル期の舞台」という困難

*『安倍内閣』 本多劇場 (2010.12.23)


 「前から『なっち』や、『アイドル』というイメージを壊したいっていう気持ちはありました」 「今思うと、ハロープロジェクト(原文ママ)にいたときは、みんなが求めている、みんなが大好きな『なっち』をどこか演じていたんですよ」(「週刊プレイボーイ」2009.6.29号:p22)


 一年半ほど前の安倍なつみの言葉です。アイドルが「卒業」やイメージチェンジに際して語る折に幾度も繰り返されてきた(そしてそれ以後も繰り返されている)、既視感のある表現がそこには並んでいます。しかしまた、そうした手垢のついたフレーズが幾人ものアイドルから定型のように提示されるという現象は、「アイドルだった」頃の世間的なイメージからの脱し難さを垣間見せるものでもあります。とりわけ、モーニング娘。が時代の寵児であった頃、毎年恒例のシャッフルユニットを除けばほとんど別ユニットでの活動もなく、モーニング娘。のマザーシップとして存在し続けた安倍なつみにとって、「なっち」払拭というのは軽い課題ではないはずです。


 その彼女が各所で語っているように、「脱なっち」の大きな契機となるべく位置するのが昨年春先の『三文オペラ』出演でしょう。三上博史演じるメッキ・メッサーの恋人ポリーを演じた彼女はまだ固さ、あるいは「なっち」風味が抜けないものの、これまで彼女が属していた文脈とは確実に異なる場を与えられ、善戦していました。過渡期と言うよりない弱さ、危うさは隠せないにせよそうした場での研鑽を積むことは、その先の「安倍なつみ」にとって大きな経験であったと思われます。

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 今作『安倍内閣』では、その好影響を窺うことができます。彼女の舞台台詞の発生や間のとり方にはもはや、アイドルあるいは「元」アイドルが、その有名性を拠り所として余技的に舞台に出る際のような危なっかしさはありません。すでに舞台に立つ女優としての余裕を身につけているように感じられます。異形性を強く打ち出していた宮本亜門演出の『三文オペラ』でポリーを演じるのとは事情が違い過ぎるとはいえ、いかにも「がんばってる」感がにじみ出ていた当時と比べ、非常に頼もしくなっている。商業演劇規模の舞台でキャリアを重ねるための基礎準備はできている。そんな印象を持ちました。


 で、あるだけに。
 その彼女を舞台演劇において「アイドル」然として、というかモーニング娘。と地続きの「なっち」然として扱ってしまう今作のディレクションには大いに疑問があります。タイトルの『安倍内閣』、及び彼女が演じる役名「安倍ナツミ」からも見てとれるように、この舞台はアイドル安倍なつみの有名性ありきで成立しています。また、彼女が元芸能界で絶大な人気を誇っていたという劇中の設定もまた、アイドル安倍なつみを(微妙に違えて)トレースするかのよう。こうしたディレクションは、観る側が劇中の安倍ナツミに、それを演じている芸能人・安倍なつみをダブらせやすくするという効果をもたらします。
 『三億円少女』レビューの際に述べましたが、アイドルありきの演劇というのは、劇中世界のみならず常にそれを演じている「アイドル」の魅力が意識され、舞台上の人物は劇中の役柄としてのみではなくそのアイドル自身(今作なら「安倍なつみ」)として眼差されるという性質を持ちます。それはこのジャンルの必然ではありますが、逆に言えばそのようなディレクションを志向することで、この芝居がアイドルとしての安倍なつみありきの演劇であることを宣言することにもなる。これは、彼女が舞台演劇でこれまでの「アイドル期」とは異なる文脈を形成しようとしている現在、ちょっと障害にもなりうるんじゃないかと。結局、舞台俳優としても彼女が提供してくれるのは「モーニング娘。でおなじみの『なっち』」ですよ、という感を補強してしまうのではないかなと思いました。


 アイドル全般について、アイドルを脱するという志向こそが素晴らしいなどとはまったく思いません。脱アイドル(たとえば“アーティスト宣言”のような)を謳うことそれ自体がよくない意味で極めて「アイドル」的な振舞いに見えてしまうのは事実ですし、ハロー!プロジェクトの成員によるそうした振舞いは必ずしもポジティブなものに見えてこなかったとも思います。たとえばそうした志向とは対照的に「『女優』でも『アーティスト』でもなく、『アイドル』を極める」ことを目標として明言する柏木由紀(AKB48)のような存在からは、また別種の強さ、格好良さも感じます(それは彼女の憧憬対象にハロー!プロジェクトがあったゆえに可能だった視線だとは思います)。
 しかし、安倍なつみ自身が舞台演劇においてモーニング娘。という文脈を背負った「なっち」とは離れたキャリア形成を志向している現在、その彼女がまさに活路を見出さんとするフィールドである舞台演劇という場で、あからさまな「アイドル演劇」をやってしまうことは、俳優としての彼女のイメージづけにおいて如何なものだろう、という感は否めません。ましてや、小劇場系演劇のひとつの到達点として位置づけられる本多劇場で公演を打つならばなおさらに。


 安倍なつみという「商品」を商業ベースにのせる必要があることはわかります。それこそ今年とみに目につくようになりましたが、モーニング娘。という歴史を背負った「なっち」を売ることが訴求力として手っ取り早いということはあるのでしょう。テレビで余興的に『恋愛レボリューション21』や『LOVEマシーン』を演り、モーニング娘。時代のメンバー内の人間関係をネタにバラエティに登場する(させられる)といった現状に、安倍なつみがプロフェッショナルとして過去を引き受けている姿を見ることができます。そうした媒体にとっては彼女の現在進行形は「需要」がない(と誰かが判断している)のでしょうし致し方ないところもあるでしょう。
 それならば、そこをプロとして引き受けている彼女に、せめて舞台に関してはそうした過去の文脈を引きずるのとは異なるキャリアを敷いてあげられないのだろうかと。物販の促進を含めた「アイドル・安倍なつみ」としての現場が必要ならば、歌手としての活動の折にそのステージを求めた方が自然なのではないかと思いました。

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 超有名女優であった安倍ナツミは国会議員の夫が急死するとその遺志を継いで補選に立候補、史上類を見ない得票数で当選する。政治に無関心の彼女はゴーストとして現れた亡夫・裕次郎(風間トオル)のアドバイスを受けながら親しい議員から信頼を獲得し、総理辞任が発表されると総裁選出馬を表明する。本命候補のベテラン議員・坂東(新井康弘)は黒い噂も絶えないが、新人議員の安倍では到底敵うべくもないと目される。安倍は血の繋がらない娘・千夏(久住小春)との不仲や亡父をめぐるトラブル等に直面しながらも総裁選勝利を目指す。


 軽いタッチで描かれるコメディであるため、政治オンチの安倍が夫の親友であった議員からあっさり政治家として信頼されてしまう等の荒唐無稽は問題になりません。ここではベテラン俳優と立ちまわっても、少なくとも見劣りしない安倍、そして保田圭に注目したいところです。芝居のキーパーソンにならざるを得ない彼女たちの敢闘によって、舞台に最低限のクオリティが維持されています。小劇場で舞台経験を重ねた保田が手堅く成長していることも見逃せない。彼女がもう一段ランクアップしうる舞台が今後提供されればよいなと思います。


 この芝居が提示するメッセージは大まかに言えば、裏で不正を働いている手練れのベテラン議員よりも、知識・経験はなくともクリーンで「家族を大切に思いやる」安倍陣営の方が貴いというものです。ひっかかるのは、これが今作では「『大衆迎合』が簡単に実現してしまっている」ように見えること。そもそも超人気女優という有名性、及び夫の弔い合戦というドラマ性を武器に当選してしまった人物です。劇中ではそれゆえの政治家としての足場のなさも明示されるし、それが中盤の壁にもなっている。にもかかわらず、そのことへのクリティカルな視線は意外に薄い。あまつさえ、最終的には安倍が家族を大切に思っている旨の発言がはからずも全国放送されたことによって、「あんな家族思いの人に国政を任せたい」という世論が形成されてしまう。

 これがひっかかるのはその荒唐無稽そのものではなく、単純化されたポピュラリティによって国政を担う場に席を得てしまうということが、現代の問題としてあまり牧歌的に笑うような話でもないように思われるため。エンディングに、この劇自らが何かしらの批評性を込めてくれれば、明るく終わったって問題ないと思うのです。彼女が政治家としてやっていくうえでの欠落や困難は何一つ解決していないわけで、それをコメディタッチでささやかに見せるだけでも奥行きが出るはず。舞台俳優として地歩を固めんとする彼女の名前を冠した舞台なのですから、過度の単純化で構成するのはあまり幸福な事態にならないんじゃないかなと思います。

 シーン転換に「暗転」が多用される(というかほぼ暗転しか用いられない)等、単調さが目立つ舞台にあって、安倍なつみは余裕で及第点の演技をたたき出し、クオリティの維持に貢献している。『三文オペラ』から一年半、彼女は役者として確固たる成長を見せています。だからこそ、今作が彼女の代表作になってはいけない、そう考えます。
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