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~演劇とアイドルと何かと~

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世界としての図書館

*イキウメ『The Library of Life まとめ*図書館的人生・上』 東京芸術劇場 シアターイースト (2012.11.20)


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 一見ごく日常的に思える世界の中にふいに非日常的あるいはSF的な設定が挿入され、それが世界を覆ってゆく不穏さが表現される。またある時はその設定を通じて、共感・共存し合えないこと、互いを理解し合えないことの絶望を鮮やかに描いてみせる。イキウメの作品で受ける大きなインパクトとは、簡潔に言えばそのようなことになります〔過去のレビュー:『散歩する侵略者』(2011.5)『太陽』(2011.11)〕。


 そのイキウメがオムニバス形式でエピソードを紡ぎ、上演してきた「図書館的人生」(Vol.1~3:2006~2010年)から、シリーズをまたいでエピソードを選り抜き、再構成したのが今回の「まとめ」です。とはいえ、ただのアンコール企画や、脈絡なくエピソードが個別に並べられるような類のものではなく、そこには初見再見に関係なく見て取ることのできるひとつのまとまりが存在します。

 本作において、端的にそれは「“世界”が具現化されているものとしての図書館」といえるでしょう。本作で特徴的なのは、過去にオムニバスで上演されたことのある、設定も人物もまったく異なる各エピソードが、すべて大元の舞台である図書館の中で生じているように見えることです。そしてそれらのエピソードが進行してゆく傍らでは、そのエピソードに登場しない人物が、図書館で開架から引いてきた書籍を読みふけっている。つまりそれは、上演中のエピソードが、同時に図書館内に所蔵されている書籍に書かれているものとして、図書館の利用者に読まれていることを意味します(ちなみに個別のエピソードも、それぞれ少しずつ他のエピソードとリンクさせられている)。


 この図書館にある一冊一冊の本には、人物ひとりひとりの生の営みが収められている。一冊一冊が人生であり、それを集積する“世界”として図書館は存在します。この膨大な所蔵書籍のどこかに「自分の本」も存在するはず。けれども、検索もできなければ本の場所も流動的。訳知り顔で「お前に似た本を読んだことがある」などと言い出す輩がいても、そんなものは大抵勘違い。手にとった本(誰かの人生)との偶然の出会いに耽溺し、「自分の本」を気まぐれに探しながら、“世界”としての図書館の周遊は終わらない。終盤、図書館内がそれぞれの書籍(エピソード)の声たちであふれるのは、まさに世界の喧騒。この世界≒図書館の見立てが混在して見えるさまは非常に面白い。


 ただしまた、2時間超の本作が中だるみなく飽きさせないのは、その設定にのみ安住していないから。毎度のことながらイキウメのクオリティに役者陣の安定感と各エピソードの作りの繊細さは不可欠です。白眉は万引きのプロと懸賞応募のプロが、一方的に見える関係から水面下で心を通わせてゆく「いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」のエピソード。非現実的な設定が登場しないこの話の中で、それぞれの理念と身勝手さ、雄々しくなく己を貫くさまの表現、ユーモラスさの塩梅、そしてラストに来る小さな心地よさへの展開は、人間の愛おしさを見せてくれる。このエピソードに関しては再見でしたが、感慨は変わらず鮮烈でした。この話の主演となるそれぞれの「プロ」を演じた安井順平、伊勢佳世の距離感も演技も素晴らしい。


“世界”としての図書館の中で、無数の人生が溢れているさまはまた、いくつもの役柄として様々な設定で幾度も生きる、「役者」たちと重ね合わせることも可能です。合計6つのエピソード(+図書館パート)が交互にあらわれてくる本作では、役者たちが瞬時に別エピソードの異なる役として人格を変え、またあるきっかけで以前のエピソードに戻ってさっきまでの役柄を生きます。ひとつひとつの本が、役者の役柄と設定を引き出すものとして機能していることを考える時、役者が別人格にスイッチを切り替える瞬間が、より興味深いものとして抽出されてくる。特に伊勢佳世の“奪衣婆”への切り替わりは格別に素晴らしかったです。

「自分」の人生が書かれた本を手にすることができたとして、それを読み進めている「現在」とその本との間にはどのような関係が生じるのか。ふと浮かぶそんな疑問にケリをつけるような安井順平の最後の言葉は、一人の人間としての「自分の本」への向き合い方と、役者としての彼ら彼女らの生が重ね合わされるようで、清々しく綺麗でした。
 作品全体に漂う明るい基調も相俟って、イキウメのタッチの繊細さと役者陣の巧みさとが、気持よく堪能できる作品になっていたかと思います。

空疎な「全力」

*ラッパ屋『おじクロ』 紀伊国屋ホール (2012.11.15)


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 設定としてはシンプルといえるでしょう。不景気の中、得意先に撤退をつきつけられた下請けの町工場が倒産の危機に追い詰められ、従業員を抱えて先の見えない模索を余儀なくされる。そこからいかにして立ち直ることができるのか、を中高年世代の悲哀を混じえつつ描くというのが基本線です。言ってしまえば話はそれだけでもあり、立ち直りの過程が具体的に描かれてゆくタイプの話でもないため、1時間45分の芝居の推進力は、ストーリー以外のところに委ねられます。

 この芝居でいえばそれは、市井の人々の他愛ないやりとりのおかしみということになるのでしょう。決して景気の良くない町工場の従業員や家族の、厳しい台所事情のうちにも、ちょっと間の抜けた会話やヤマ場のあるわけではない掛け合いの愛らしさで話を展開させてゆきます。
 もっとも、そうしたやりとりの見せ方は、それほど巧みというわけではありません。掛け合いのタイミングや、声のオーバーさの度合いに若干のこなれなさと手際の良い感じとが混じってあらわれ、結果としてやや冗長なオチのない時間が長く続いてしまうことがしばしば見られました。一見なんでもない、つまらない会話を、それでも愛らしいシーンにするというのは、外から考える以上に計算や役者の足し引きの巧みさが必要であることを思い知らされます。とはいえ、そうしたシーンの滑らかさには欠けるものの、工場の中心的存在で実質主役といえる洋平(おかやまはじめ)やその娘で休職中の順子(三鴨絵里子)らの好感の持てる演技は心地よく、描かれる市井の人々の「なんでもなさ」には親しみを持って観ていられる。


 この芝居の最大のフックは、すでに上演前から各媒体で周知されているように、町工場の中年男性たちがアイドルグループ・ももいろクローバーZ(以下、ももクロ)の曲を踊るというクライマックスです。工場の従業員にももクロ好きが多いというエピソードがストーリー序盤で語られますが、中盤に洋平の旧来の親友であり共に工場を支える勝治(俵木藤汰)も薦められてハマり、軽い療養中の洋平に勝治がももクロのDVDを貸し、という形で伝播してゆきます。これは工場が危機を迎えるまでのくだりに裏テーマとして挿入されてゆくのですが、工場の危機とももクロに従業員がハマってゆくというこの二つが出会ってから、話は説得力を失ってゆくように思いました。


 脚本・演出の鈴木聡自身もインタビューで用いていたももクロ賛辞の言葉である「全力」は、ここしばらくのももクロを称える言葉としてもっとも世に溢れているものかもしれません。素直にいえば、告知のフライヤーに書かれた「ほかのアイドルとは全然ちがうんだよ!」「全力であるってことがどれだけ人を励ますのか、僕はももクロに教わったんだ!」等の言葉には食傷気味でさえあります。

 この点、芝居上で気になったのは、ももクロの魅力を語る「全力」という言葉が繰り返され、それが登場人物に投影されて「自分は今までこれほど全力でやってきたのか?」という問いが次々つきつけられるに至って、そのももクロ賛辞である「全力」という言葉が、意味内容・ニュアンスの見えない空疎な言葉に響いてしまうことです。ももクロが登場するわけではもちろんなく、映像が流れるわけでもない中で、芝居上ももクロが実体の見えない憧憬対象として存在する根拠が、正味「全力」という言葉だけではいかにも弱い。工場の危機からどう立ち直ったらいいだろうかと思案する中で洋平が「だから、全力だよ」とももクロのDVDを観ようと手に取る瞬間、ほかの登場人物はその根拠のなさに呆れますが、ストーリー全体として、「だから、全力だよ」以外のものが提示できているかというと首を傾げざるを得ません。

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 また「中年男性がももクロの曲で踊る」ということまで事前に開示されている以上、クライマックスの絵面のクオリティの上限には大まかな見当はつくわけです。実際、それは予想の範疇を出るものではない。そのこと自体は全然問題ではありませんが、そのライブパートと、主体となるストーリーパートとの接続が弱いように感じられました。ももクロを踊る動機が語られて以降の登場人物の心理、家族がどのような距離感で受け止めているかの描写の弱さなど、必要な手続きはまだたくさんあったのではないか。


「蒲田のライブハウス」でステージに立つ彼らを観に来ている観衆は80名と説明されています。劇内では説明されませんが、決して少ない数ではないその人員は、おそらくは工場の従業員や家族等、関係者なのだろうと想像します。その観客と、ステージ上で「行くぜっ!怪盗少女」を踊る彼らとの温度差の有無や、彼らがももクロを踊ることを家族が支持する理由が示されれば、「中年男性が踊るももクロ」に、単に「中年男性が踊るももクロ」以上の、作品特有の価値が明確に生まれたのではないかと。


 作品の流れとの繋がりが強固にならない彼らのクライマックスのアクトは、端的に「ヲタの振りコピ」になってしまいます。ヲタの余興的なものが楽しくないわけではないし、ヲタ同士で盛り上がることにも価値がある。けれども、「ヲタの振りコピ」がクライマックスで最大の拍手をもらう光景は、あまりすっきりするものではありませんでした。

 市井の人々が他愛なく笑ったりやりとりしたりすることに生じる、ほのかな哀しさとおかしさが武器になる劇団だと思います。その哀感でも小さな希望らしきものでも、中年男性がももクロを踊るということにもっと有機的に絡ませることはできたはず。独立した演劇作品としてももクロを活かしているのを観たかったかなと思います。

あるいはテレビドラマ的な

*『カワイクなくちゃいけないリユウ』 新国立劇場 小劇場 (2012.6.2)


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 かつてのなだぎ武と友近による『ビバリーヒルズ青春白書』の登場人物パロディは、アメリカの現代的なテレビドラマが吹き替えで放送される際に採用される言い回しや演技のコード、テンションへの、潜在的な違和感を抽出してみせたものでした。それはアメリカ産のテレビドラマの中に配されるゆえに、さしあたりの不自然さを呑み込んで鑑賞することができるものの、日本人が形態模写することで違和が現前してくる。これは、「翻訳」が単語レベルの逐語転換作業の難しさのみならず、言葉の並べ方、繰り返し方の習慣、それに付随する振舞い等を、日本(人)の振舞いに再配置することの困難をうまくとらえたものでもあります。
 翻訳劇は少なからずそうした文化的ギャップが付随せざるをえないものですが、とりわけ本作『カワイクなくちゃいけないリユウ』(原題“Reasons to be Pretty”)は、「現代の若者」が描かれるゆえか、「アメリカのテレビドラマを吹き替えで観ている」感覚が強いものでした。


 二組のカップルのすれ違いでストーリーが進行してゆく本作は、グレッグ(村井良大)とステフ(村川絵梨)の恋人同士が部屋で喧嘩をしている場面から始まります。ここで両者は無難に芝居をこなしているように見えます。しかし、ステフの怒り方のテンションや身のこなし、あるいは同じ言葉、同じ説明のリフレインはいかにも吹き替えドラマ的に見える。かつそこでは吹き替えドラマと異なり、振舞う身体そのものが「日本人」である、という違和が挿入されます。これは、こちらに一般的な知識としてアメリカのドラマ的な(あまつさえ日本人によって戯画化されさえしている)振舞いというものがインプットされているためもあるでしょう。翻訳劇を演じるうえでは、この違和をいかに自然に消化するかという作業が必須なのだなと気付かせてくれる(広くとればそれは「翻訳」劇に限ったことではないですが)。


 その点で、最も不自然にならずに役を表現できていたのはもう一組のカップルの男役・ケントを演じた植原卓也でした。ステフを一途に思いながらも不用意な言葉で関係に溝をつくってしまうグレッグとは対照的に、軽薄で浮気もするものの恋人への立ち回りが上手い(少なくとも表面上は)役柄のケントを、「アメリカ」的にも日本的にも極端に振れない巧妙なバランスで演じています。本人が意識しているかいないかわからないレベルの、若さゆえの未熟さのようなものも仕草等から表現されていて、大別すれば主役側ではありませんが、彼が登場するシーンは起伏に富んでいたように見えました。もっとも自在に動けていたのではないかと。


 上述したような違和は、特にグレッグとステフの喧嘩のシーンにおいて、冗長さに繋がっていたように思います。英語圏ならば自然なのかもしれない同じ言い回しの繰り返しが続くと、観る側はもう意識がその先に向かっているのに、劇の進行がその意識に追いついていないように感じられる。
 たとえばなだぎ武による「ディラン・マッケイ」では、その繰り返しが与える違和を誇張してみせることで、ひとつのスタイルになっていました(自転車を降りるだけの仕草をする際に、「今、自転車から降りるからな」「今、降りている」「ああ、間違いなく降りている」「ようし、降りた」と逐一台詞にしてあえて違和を見せていたように)。
 本作ではその繰り返しによる冗長さが有効に働いているようにも見えなかったため、翻訳でうまく伐採できるところはあったかもしれないなと。それを気にさせない演技プランや技術はあるのではないかと思いますが、今回に関しては「日本」的なアレンジを強くしてもよかったのではないかと。


 もちろん翻訳劇を観る際に常にそのような違和が前景化するわけではなく、やはり演者の抽斗に依存するところは大きい。ケントの恋人カーリーを演じた吉川友(前作映画主演作)は、ステージ上で非常に目を惹く容姿をしています。実際に、容姿に優れているという設定のカーリーには似つかわしく、ステフに比して高いテンションを求められる役ではありませんが、台詞の発声に幾分不慣れなものを感じました。そのためか吐き出す言葉が多少上滑りしてしまっていたように見えます。この点は、キャストのキャリアからくる抽斗の少なさもあるはず。見かけ以上に、役者が対応することの難しい劇のようです。
 また、これはキャスト自身の責ではないですが、全キャストのうちで最も重要な経験をする役柄であるだけに、扱い方がステフに比して簡単になってしまったのも残念。


 とはいえ全体的には、役者たちの素材には魅力を感じる割合のほうが大きく、脚本を守るよりは四人のキャストを活かす方が良かったかなと思います。翻訳台本、演出を、役名にではなくより四人の役者にすり寄せて作ってゆくバージョンを観てみたいなと。とくに吉川のカーリーはそれでこそ引き立つような気もします。

 脚本に関しては、上記の難しさの他に、主人公の経験やそこから得た教訓や成長を、最後に主人公の独白でひと通り語らせてしまうのがどうにもうまくないなと、ダサいなという印象でした。そこは直接的な言葉にしないで表現すべきかと。締めとなるこの部分については、その独白を口にするグレッグ含め、四人のキャストの後味の清々しさによってカバーされていたと思います。

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“アイドル”扱いされないことの心地よさ

*『レシピエント』紀伊國屋ホール (2012.3.1)


 佐藤江梨子の演技と周囲のキャストのスタイリッシュさ、この二点でまずは導入に成功しています。
 弟を亡くし身寄りを失った盲目の女性・信枝を演じる佐藤が冒頭でみせる、静かながらとりつくしまがなく、人に対する警戒や不信が先立つような表情と立ち居振る舞いが、この作品の安定したクオリティを予想させます。

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 G2の演出はその予感を裏切らず、取り立て屋の会田(加藤和樹)と医師・吉見(三上市朗)の背景、会田の部下たちの関係性をテンポよく見せてゆく。若いキャストも含めて総じて演技が安定し、見栄えも整っていることで、冒頭に佐藤がつくってみせた緊張感と質の高さをきちんと維持している印象を受けます。


 取り立ての最中に事故に遭い、臓器移植によって一命を取り留めた会田は、その手術から復帰して以降、自身の趣味や食べ物の嗜好、あるいは性格そのものが以前とは変わりつつあることに気づき、闇医療で手術を担当した吉見を問い詰める。臓器を提供したドナーの性質が提供を受けた者(レシピエント)にあらわれる事例があることについて会田に説明する吉見、そして会田はそのドナーが、会田自身が借金返済を迫って追い詰めビルから身を投げた男であることを知る。


 会田とドナーとの関係と共にストーリーを紡いでゆくのが、会田の子分となる三人。彼らのキャラクター、特に手術以降思うように取り立てができなくなってゆく会田の追い落としを謀る木塚(橋本淳)の存在感が際立っています。狡猾さを見せながら子分を率いる振る舞い、また終盤でのヒールとしての活躍ともに、物語の山をつくるのに貢献している。この物語をエンターテインメントとして充実させるうえで、彼の貢献度は大きいと思います。付随して、木塚をはじめとするキャラクターのスタイリングもまた良い。スタイリングの細やかさによる見栄えは軽んじられるものではなく、衣裳担当の十川ヒロコの仕事も評価されるべきでしょう。


 他方、この作品は臓器移植というデリケートなテーマを扱うものでもあり、作品全体の要素配分には簡単でないものがあるはずです。このテーマとの対峙にあたって最大部分を担うのは、佐藤江梨子です。

 今はなき弟の、姉を気遣う気持ちのあらわれを額面通りに受けとめることができず、またその弟の真っ正直な思いやりの残酷さについて吐露する佐藤の演技は、抑制がきいているだけに重く響く。弟にとって大切な姉へのいたわりの実践はまた、姉にとって大切な弟の何かを損なうものでもあります。幼少時から弟に聞かされてきた思いやりの言葉は、それが無邪気であるだけにいっそう姉を苦しめる。そして時を経て、人生に追い詰められた弟が実践する最後の無邪気さは、さらなる重さを付加して姉に届く。
 佐藤演じる信枝は、最後まで残酷な事態ばかりを引き受けざるを得ません。お話として見れば、あと幾ばくかの救いも欲しくなるところではありますが、佐藤の演技はストーリーを支え、見事に作品に格をつくっています。一方で、レシピエントである会田の方に、「自分が自分でなくなる」ことの煩悶をめぐる描き込みがもう少しあっても良かったかなと思います。

 ともかくも、佐藤江梨子という役者の強さは記憶に留めておきたいところです。これから30歳代、40歳代を迎えた時に、彼女が役者としてさらに大きな凄みを見せつけてくれるように思えて非常に楽しみです。

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 劇後半、ドナーの特徴を示す鍵として登場するのが売れないアイドル・カレン(吉川友)です。吉川主演映画『きっかけはYOU!』はアイドルコンテンツの時流を批評しつつそれを反転させるような意欲的な試みでしたが、その作品内でもうかがえるように、彼女の俳優としての適応力は低くありません。
 本作品内では相対的に出番も少なく、重さが課される役ではありませんが、それでも細かい反応や表情には素材の良さを感じさせます。いわゆる歌ものの“アイドル”はとかく出演する舞台作品やそこでの演者としての機能が限られがちですが、この水準の舞台に立ち、適応できたことはとても嬉しいし心強い。

 それとはまた別に、実際のアイドルがアイドル役を演じることの難しさはあるかもしれません。『きっかけはYOU!』の際にも少し感じたことですが、アイドルがアイドルを演じるとディテールの不自然さが否応なく目についてしまうということがあります。吉川演じるカレンのファンであった「オタク」の造形が幾分乱雑であること、握手会にファンが一桁程度しか集まらないレベルのアイドルが常連ファンの見た目を一切覚えていないこと等は、細かい点ですが、演じ手がまさにキャリアをもつアイドルであるだけに少し引っかかります。劇の作り、演出の水準が高いだけに、もっとうまい作劇上の嘘の付き方はあったかもしれません。

 しかしそれも瑣末なことではあります。吉川友が「アイドル」役を演じながらも、作品をつくるパーティーの一員としては「アイドル」としての甘い扱いをされていないというのは大きなことですし、この方針で舞台仕事が入れられていくならば、ソロの演者としての彼女の、この先にも繋がるはず。

 また作品全体としてみたとき、デリケートなテーマをエンターテインメントとしてつくるのも、覚悟をもったひとつの正当なアプローチですし、舞台作品としての各要素の平均レベルも高い。こうした芝居の一員として吉川友が参加し機能し得た、そのことの意義は小さくありません。

【追記】
 舞台演劇において、「アイドル」扱いされないことこそがよい、という単純なものでもないので、そのあたりはBerryz工房主演『三億円少女』の項も参照のこと

「ここにいたこと」

*北九州芸術劇場プロデュース『テトラポット』 あうるすぽっと (2012.3.2)


 まず、強く想起するのは海に呑まれた生命のことです。
 全編が「海」をモチーフにつくられたこの作品は、2011年3月11日を、そして本当は今でも当たり前にここにいたはずの人たちを、ごくごくありふれた(ようにみえる)ドメスティックなエピソードで想像させます。

 人物設定は直接的に東北を示すものではありません。あくまで北九州の人々が描かれ、家族の死も、それを受け止める兄弟たちも、その末弟がアクシデントとして経験する新しい生命のはじまりも、九州の方言で描かれ、そこで語られる生や死はありふれたもののようであっても、実際にあった何かではなく、まして大災害ではない。

 それでも作・演出の柴幸男は3月11日の記憶を明確にそこに重ねている。

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 時間が止まり、同じ場面が幾分ずらされながら繰り返される、その基点になりまた居場所にもなるのは、「2時46分前後」。東北地方太平洋沖地震の発生時刻です。繰り返し言葉にしてあらわされる「2時46分前後」は、北九州に息づく家族や知人の日常的(というフィクション)なエピソードのキーになってゆく。

 ある人物の喪失が語られるエピソードが進行していたかと思えば、そのエピソード終盤にその喪失された主体が実は「自分」なのだと指し示され立場が転換するような台詞が語られ、生者と死者の入れ替えがにおわされる。あるいはまたさっきみた「2時46分前後」に戻り、人物の時代設定が行き来し、学生だった彼らが大人に変わり、そのうえでさっきの台詞のシークエンスが反復され、途中で少しそのやりとりの軌道がずらされる。
 反復的、往還的な構成でほのめかされるのは、今はもういない誰かが、いま自分が経験している日常を経験していたのかもしれないこと。壮年を迎えた誰かの若い頃の些細なエピソードが、若くしてこの世を去った誰かにとっての「今日」であったかもしれないこと。一人称的な人物として登場する海坂三太(大石将弘)が、みんなはいないのか、と叫ぶとき、「みんな」は逆に、三太だけが“いない”という可能性を突きつける。今はもういない人のありえたはずの現在の日常を自分のものとして経験している我々と、我々と同じような小さな日常を持ちえたはずの誰かの喪失と。両者の本当はありえた現在への想像力が喚起されることで、面倒臭い母親の言動への応対も、みっともない男女関係も、もう割れてしまった家族関係の世知辛いやりとりさえも慈しみたいものに思えてくる。この日常風景的なエピソードが泣きたいほどに愛おしく見えてくる感覚は柴幸男が自身の劇団「ままごと」で上演した前作『わが星』にも通じるものです。


 この世の終わりをある意味肯定的に描いた『わが星』は、結果としてそのことが今ある生への祝福にもつながっていたように思いました。本作『テトラポット』においては、終末ではなくその先に繰り返される生の営みが強調されます。

 四兄弟の末っ子・四郎(藤井俊輔)との間に予想外の、しかも大きな“生”の体験をする川合らっこ(古賀菜々絵)が滔々と言葉にするのは、46億年前から繋がって自分たちの生へと連なり未来にまた今はいない生がうまれる、その繰り返しです。今はもう壮年を迎えた人物の少年期を、少年である別の人物の現在の営みに微かに重ねるような想像力を誘うこの劇を観ているうち、生者としてあること、死者としてあること、過去の生、未来の生へのマクロな捉え方と、日常レベルの些細さを丁寧に見つめるような捉え方とが不思議に重なる。
 劇中で象徴的に合奏される「ボレロ」の曲の繰り返しを背景にして、生の営みの繰り返しが「2時46分前後」に重なるとき、そこにあるのは鎮魂だけでも遠大な宇宙観だけでもない、優しさと哀悼と日常と、言い尽くせない何かが綯い交ぜになった感覚です。


 「当事者」であり、且つ「当事者」でないことの自覚を持ちながら、3月11日を受け止める作品を創作するのはとても怖いし難しいことでしょう。また観る側もその作品をどう受けたらいいのか、安易に結論も出せないし腑に落ちたような思いになれるはずもない。けれど少なくともこの作品には、生が失われてしまったという、取り返しのつかない事態の中でなんとかその現状を受け止めるための祈りが見えます。また翻って、今ここにいる我々という生を引き受け、慈しむ視点がみえる。この構成をもって、シンプルに切り分けられない多くのことを語ろうとした柴幸男の手際は素晴らしく、またそれを成立させた役者陣の好演も相俟って、演劇体験ということの強さと奥行きを確認させる作品になっていたと思います。
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