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~演劇とアイドルと何かと~

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モンスターを飼い馴らせ

*NODA・MAP『MIWA』 東京芸術劇場プレイハウス (2013年10月16日


 実在の事象、それも近過去に生じた事象や現在にまで引き続く事柄が作品に織り込まれるとき、そこにはある緊張感が生じざるを得ません。それはまだ、その事象や出来事が「歴史」化されていないためです。つまりそれらは、すでに「歴史」の一部になって評価が定まったものや、あるいは今日とはさしあたり切り離して考えられるようなものではない。それを描くことは、否応なく現在世界で生起している個別具体的な何かに対して作り手の見方を表明することになる。その最たるものが、2001年のアメリカ同時多発テロを扱った作品群であり、また2011年の東日本大震災をテーマにした作品群でしょう。

2013_10_16_MIWA

 とりわけその解釈が問われるのは、再現VTRやルポルタージュ形式のもの以上に、フィクションとして制作されたものです。フィクションであることで、その事象に対する作り手の解釈がより強く反映され、またフィクションであることで、それがエンターテインメントとして、すなわち楽しまれるためのものとして存在することがより明確になる。

 本作『MIWA』は実在の、それも現役でメディアに頻出する人物を題材にしています。しかも劇中に登場するというレベルではなく、タイトルに名前が冠されているように、「美輪明宏」そのものを大テーマとしている。そして何より大きいのは、その美輪明宏という人物のセクシュアリティを作品最大の駆動因として配置し、その内面が語られることです。それは明らかに美輪明宏という人物についての、劇作家・野田秀樹の解釈であり、美輪明宏の言葉ではない。作家の解釈と創作によって美輪明宏という人物の性ないしは愛に肉薄しようとするかたちで、エンターテインメントをつくりあげていることになります。そこには相応の覚悟と倫理が必要になる。

 しかしまたそのような、ともすれば不遜でもあるような試みをも不思議に飲み込んでしまうものとして、実在の美輪明宏はある。美輪のあり方は、そのかたちを掴んで描ききることがきわめて難しいし、同時にそうして描いたものを許容してしまうような特異さも併せ持っている。


 野田は本作で美輪を、ひとつの肉体に二つの霊が宿ったものとして表現しています。美少年としてのMIWA(宮沢りえ)の背後には、常に化け物的な存在としてのアンドロギュヌス(古田新太)がいる。ここで宮沢の演じるMIWAは、男ではない魂を表現しています。それは冒頭、現世に生まれ落ちる直前を描いたシーンに明示的にあらわれています。男に生まれ落ちるか女に生まれ落ちるかを決める「最初の審判」で、MIWAは男性器を模した「踏み絵」を踏めずにいる。これはここでは男性器を否定できない=男性として現世に生まれることを意味しますが、MIWAは男性に生まれることを拒み、かつ「踏み絵」を踏むこともできないでいる。与えられた性を拒絶し、生まれ落ちることの許されない存在として審判がくだされるところ、それを強引に破りMIWAの手をとって現世への導きをするのがアンドロギュヌスです。つまり現世に生まれ出たこの人物は、男性であるMIWAの肉体に、女としての魂であるMIWAと、男としての魂であるアンドロギュヌスの二つが同時に入り込んでいることになります。


 とはいえ、MIWAの肉体はMIWAのものです。ひとつの肉体を分け合うパートナーとしてアンドロギュヌスと対話を繰り返しながら、ある時ふっとアンドロギュヌスが姿を消す時が訪れる。それは劇中、MIWAに好きな男の子が出来た時、つまりMIWAの心が「女心で澄み切った」ときです。

 幼年期から青年に至る過程で、MIWAの前には幼恋繋一郎、初恋繋一郎、赤絃繋一郎(いずれも瑛太)の三人の恋愛相手があらわれます。彼らとの関係に没頭できる瞬間、MIWAの中にアンドロギュヌスの影は見えなくなる。しかし、MIWAにとってアンドロギュヌスは飼いならすことのできる存在ではなく、またアンドロギュヌスはMIWAの「歌声」を司るような役割を負っているために、エンターテイナーとしてのMIWAと不可分の存在としてある。劇中を通じて、ひとつの肉体がはらんでいるこの二重性はたびたび、MIWAという人物の一代記的な物語に大きなゆらぎをもたらします。


 こうした二重性はまた、本作では登場する各人物にも付与されています。MIWAの居るソドミアンバーに通う作家・オスカワアイドル(野田秀樹)は、最後にその姿を見せる時、MISHIMAすなわち三島由紀夫をモデルとした人物としてあらわれます。そしてオスカワアイドルが彼のアンドロギュヌスであったことを告げ、そのオスカワアイドル=MISHIMAは自衛隊市ヶ谷駐屯地へと赴く。MISHIMAを突き動かす怪物としてオスカワアイドルは彼の内にいた。あるいはソドミアンバーのマスター・日向陽気と他店を統べる日影陰気(ともに池田成志)との反転など、それぞれの人物に大小の二重性を垣間見せ、作品総体のテーマにリンクさせています。


 大切なのは、それら二重性を用いた演出、演技が、明快に観客を楽しませる明るさを持っていることです。美少年であるMIWAのアンドロギュヌスを演じる古田は、登場時から我々が普段メディアで目にする黄色の頭髪の、あの「美輪明宏」に扮しています。それは登場時には、コントのようにさえ見える明らかな陽性のパーツとして機能している。また甲高い声を持って演じられるオスカワアイドルも、池田が受け持つソドミアンバーのマスターの役柄も、明確に笑いを意図した演技とテンポで劇を推進している。本作「MIWA」でまず印象に残ったのは、この作品が非常にわかりやすく笑わせ楽しませるエンターテインメントであることでした。MIWA=美輪明宏という人物のセクシュアリティを描き、また彼の半生を描く途上で戦後を描き、三島由紀夫や赤木圭一郎といった昭和のスターのエピソードをにじませ、そして何よりも、美輪自身の体験に重なる長崎の原爆の記憶を描く。それらひとつひとつに重みを持たせながら、NODA・MAPの近作に比しても簡明な笑いを基調として強く持っているように感じられました。このバランスは頼もしかった。

 MIWAの二つの魂を演じる宮沢と古田はコンビネーションが良く、特に古田の、笑いと哀感の間を一瞬で往還してしまうような巧みさで、アンドロギュヌスの面白さと哀しさが十二分に表現されていました。冒頭に現れた時にはコントのようでしかなかった「美輪明宏」の扮装が、ほどなくして違和感なく、そしてその見た目でなければいけないように思えるほどになっていました。
 またソドミアンバーのマスターを演じる池田も、このエンターテインメントの空気作りに大きく貢献していました。MIWAのサイドを固める役として、特筆すべきは池田の演じた役々でしょう。


 ラストにアンドロギュヌスを失ったMIWAは、自らをアンドロギュヌスの姿に似せて扮装していきます。それはすなわち、我々が今日見かける、あの「美輪明宏」の似姿です。その、他人がやればチープなパロディでしかないはずの扮装が、宮沢=MIWAの身体を通じて実在と地続きの「美輪明宏」になっていく。ここまで野田の解釈によって展開されてきたMIWA像が、現実の「美輪明宏」へと集約していくような感覚がそこには訪れる。
 これは、実在の人物・事象を解釈しようとするならば、倫理的なあやうさをはらんだ明らかな錯誤です。実在の人物に、明らかなフィクションを通して感情移入してしまっているのですから。しかし、それすらも許容してしまうような美輪の特異な存在感は、そんな倫理観を小さなものに感じさせてしまう。「美輪明宏」の扮装を終えたMIWAが若手女優に「大好きです」と声をかけられ、「一生、言われ続けている。飽きちゃった。」と返す時、そこにいるのは虚でも実でもいいような、あの「美輪明宏」です。野田秀樹という作家が真摯に向き合ったフィクションの「MIWA」と実在の「美輪明宏」、舞台上に体現されたその二重性は、次第にそのどちらが真であるといったような、シンプルな捉え方を無効にしていくようでした。

何者でもないことの眩しさ

*「16人のプリンシパルdeux」 赤坂ACTシアター (2013年5月3,4,12日)


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 アイドルの存在ありきで成立する演劇企画というのは、その演出や脚本よりも「◯◯役をやっている誰々」を見るという側面が常に先行します(詳しくはBerryz工房主演『三億円少女』の項参照)。

 もっとも、スターシステムを旨とする演劇においてはそうした視点の重要性は周知のことでもあり、それはたとえば宝塚歌劇や歌舞伎などでも同様です。上演中に、スターの登場に合わせて拍手が起きたり掛け声が飛んだりする場合、それは往々にして劇中の「◯◯役」よりもステージにいる「スターとしての誰々」が先行していることが多い。
 そうしたスターシステムの演劇とアイドル演劇とを分かつものはなにか。それは、前者が演劇をさしあたりの本業としていること、換言すればその背後に演技者としての一定水準の技術を信頼できる裏付けがあるかどうかです。

 芝居を本業としない、すなわち一般的にいえば演技力には期待できないアイドルが、なおかつその有名性、スターとしての存在そのものとして舞台を成立させるためには、「役者」としての単なる演技力の水準のみならず、各アイドルがその舞台作品に対して見せる、意気込みの強さや葛藤など、「アイドル」としての当人のパーソナリティが垣間見えることが不可欠となるでしょう。アイドルはその技術水準にもまして、パーソナリティそのものがファンの享受の対象となるためです。


 本作「16人のプリンシパルdeux」は、乃木坂46各メンバーが舞台において否応なく背負う、役者/アイドルの二重性を、興味深いバランスで具現化しています。
 二幕構成の第一部がメンバー全員によるアピール=オーディション、第二部が第一部のオーディションで観客投票により選抜されたメンバーのみがステージに立てる演劇という大枠は昨年も行なわれた「16人のプリンシパル」と変わりませんが、今回は二幕目の演劇に脚本・喜安浩平(ナイロン100℃)、演出・江本純子(毛皮族)を招聘し、オリジナル性の高い演劇となっています。
 また各メンバーが各公演で演じたい役に立候補するために公演回ごとに競争相手も異なり選考の条件が異なってくる(同じ役に4人、5人立候補することもあれば、1人しか立候補がいない=事実上その時点で役を獲得できるケースもある)。これにより、比較的に公演ごとに出演するメンバーの流動性が高くなっています。

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 このように第一部は演劇ではなく、観客が選考権をもつオーディションになるわけですが、そのオーディション自体が舞台上で示される以上、その選考過程におけるアイドルたちの姿もまた「見世物」となります。審査を受けているメンバーのみならず、その後ろで審査を眺める、順番待ちのメンバーの姿さえも、消費される。これは先に述べた、パーソナリティが享受対象となる、ということですが、しかしここには多少の虚構性の高さが混ぜ込まれています。


 その象徴となるのが、演出家ローズ・パープル(江本)と演出助手ムーン・シャドウ(柿丸美智恵)です。乃木坂46各メンバーが本人そのものとして舞台に立つ第一幕において、『ガラスの仮面』にインスパイアされた役名・風貌を有するこの二人だけは、虚構、芝居の中だけの人物です。彼女たちが演出する「乃木坂歌劇団第156回公演『迷宮の花園』」のオーディションを、乃木坂46のメンバーは受けているという体裁になっている。ここで第一幕には、その劇内設定としての芝居オーディションを受ける人々の姿こそが描かれる、ミュージカル『コーラス・ライン』のような構造が生じてきます。この虚構と現実の距離感は面白い。


 江本演じるローズ・パープルは虚構の人物ですが、しかし彼女とメンバーとの間には、稽古期間を含めて常に「演出家と演者」として築いてきた関係も垣間見える。『コーラス・ライン』構造の中で「オーディション受験者」が「演出家ローズ・パープル」に受ける指導には、そのまま乃木坂46メンバーと演出家・江本純子との関係が張り付いている。ローズ・パープル/江本は、メンバーのキャラクターや演技の方向性を見ながら、注文をつけて演技を繰り返させて審査を先導していく。

 ここで興味深いのは江本の、オーディションを方向づける審査者でありつつ、「ローズ・パープル」として審査する姿(声)自体が「劇」として観客に見られる役者であり、なおかつオーディションを統べる立場でありながら、それに基づいた選抜を行なうという最重要の権限だけを持っていないという、複雑な立場です。逆に観客はその最重要の権限だけを持っているが、オーディションの細部に介入することはできない。権限のねじれが起きています。

 そうした構造の中で、最重要の権限を持った演劇の素人(観客)たちによって審査されるのは、明確に「役者」ではないアイドルとしての乃木坂46メンバーです。圧倒的に演技で選抜されるわけではなく、乃木坂46というアイドルグループの中での立ち位置も否応なく影響してくる。その中で、通常のグループ内での人気・知名度序列とはまた別の基準で選ばれるメンバーを見るとき、そこにはやはり新鮮な驚きがあるし、彼女たちの新たな活路を垣間見せる。

 しかし一方で、まだ明確に「役者」ではない、もっといえば芸能者としてまだ何者でもない彼女たちの演技における「巧い」はきわめて中途半端なものです。役者としては手札も少なく、改良の余地も山積した、まだ隙の多い存在です。さらに、そのような半端な存在なのに、ひとつの役に専心できるわけではなく、どの役が充てられてもいい準備をしなければならない。
 まだまだ「過程」の存在だからこそ、うまく行っても行かなくてもそのすべては中途半端で歯がゆい。しかしまた、「過程」の存在だからこそ、メンバーが時折見せる光には彼女たちにまだすべての可能性が開かれているようで眩しい。
 アイドル演劇はどのような水準でこそ最も楽しめるものなのか、そもそもが困難さをはらんでいます。「16人のプリンシパルdeux」はアイドルを享受することはどういうことなのか、その演劇構造をもって浮き彫りにするものかもしれません。

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 喜安脚本による第二幕。本土から遠い離島に建つ屋敷で起こる怪死事件に、遺産相続や本土からやってきた探偵などの要素も含まれた45分程度のミステリものです。もっとも、各配役はその役に専従してきた役者ではなく、前述のように直前の第一幕で決められたメンバーたち。額縁的な演劇を観るというよりも、その役々をどのメンバーが演じるのかという、各演者に収斂した見方が強くなります。これは必然的に、毎回誰がその役を演じるか自体がアトラクションのひとつとなる。その意味で、先に挙げたスターシステム演劇のジャンルである、歌舞伎や宝塚歌劇と遠からぬ部分もあるでしょう。


 柿丸を除く演者すべてが「役者」ではない以上、演技力のみによって舞台を推進していくことには限界があります。その点、他の江本演劇にもみられる、歌と映像、ダンスによるタイトルロールで序盤を開始させた運びはとても秀逸でした。アイドルたちが歌い踊る姿、さらには配役として充てられる女中1~6の各役のように、衣装によって目を引くことができる点もすばらしい。女性アイドルが演じる前提でキザな男役が配役中にあるのも好相性でした。


 一方、ファンによるリピートをいやがうえにも促すこの仕組みは、上演期間中に芝居の緊張感を変質させてしまう危うさを持っていると感じました。回が重なり、リピート観劇が多くなることで、演者と客席との関係において、また演者同士の関係においても、もうこの劇構造やディテール、これまでのオーディション風景を多少なりとも皆が共有していることが前提になっているような、初見者への説明的な箇所がいくらか飛ばし気味になっていくような。東京公演終盤で再見した際にはそうした印象もありました。
 これはこの仕組がはらむ必然でもあるため、演出サイドによる手綱の調整が必要となるところなのでしょう。第一部の江本/ローズ・パープルの振る舞いを見る限り、そうしたバランスは持ちうるように感じられたので、大阪公演でさらなる熟成がされれば良いなと思います。


 ともかくも、まだ何者でもないアイドルたちの身体の躍動と、その先の道への、まだ踏み出していないゆえに開かれた可能性の眩しさとを浮き彫りにする「16人のプリンシパルdeux」は、アイドル演劇の企画の可能性としても示唆の大きいものです。乃木坂46自体がまた、この公演をフィードバックして継続的にこんな景色をみせてくれればと思います。

甘えなんてお互い様

*月刊「根本宗子」『今、出来る、精一杯。』 下北沢駅前劇場 (2013.3.8)


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 おそらくは根本宗子さんという作家が一貫して保ち続けているのは、人間の「甘さ」「弱さ」あるいは「大人になれなさ」といったものへの繊細な視線です。
 根本さんがこれまでも度々題材にしてきた「弱い」登場人物たちは、環境に甘え、肯定されるべき根拠を持たない自分を受け入れてくれる(ように見えている)他者に甘え、自分が弱いことの「仕方なさ」を理不尽に主張して暴発する。本作もまた、決して当事者にはなりたくないような人物たちが互いの感情の受け止め方に齟齬を孕みながら甘え合い、求め合うことの不格好さが容赦なく描かれる。


 些細なことで仕事に就くことに対する意欲を保てなくなり職を得られずにいる安藤(加藤岳史)を、経済的にも精神的にも優位にいる恋人のはな(早織)は優しく受け止めながら、表向き慈しみ合う恋人関係を保っている。仕事を得られない安藤を甘えさせているはなの身辺にある日生じる重大な喪失をきっかけに、安藤に精神的にさえ頼ることのできないはなの絶望と、はなが求めるものを圧倒的に理解できない安藤が膨らます劣等感と他者不信によって両者の関係は破綻をきたす。
 他方、安藤が一度は働き手として採用されたスーパーでも、その従業員たちという限定されたコミュニティ内での男女のカップリングとそのほころび、なし崩しに持ってしまった性関係にからめとられて状況を打開する策も持てない人々の弱さが連鎖を生じさせている。さらにスーパーに厄介な客として訪れる長谷川(根本宗子)と従業員金子(野田裕貴)の過去に刻まれた傷が、それぞれの形で周囲を巻き込んでいく。


 根本宗子という作家の真骨頂である、社会への適応できなさや認知されなさの原因を外部要因に求める人間のどうしようもない甘さの描写、またその甘さの発露が自分を受け入れてくれる異性に向かう際のみっともなさは、まず職を得るバイタリティを持てない安藤を通じて痛々しく描かれます。中盤、経済的にも精神的にも恋人のはなに頼っていることの後ろ暗さを歪んだかたちで彼女にぶつけながら、同時に彼女に対する、また自分に優しくしてくれるはずの女性たちに対する不信も吐露して、責任の所在をかき回す。相手もまた自分と同じく受容を求めている人間であることに思い至らない安藤がはなに対して向ける言葉は、ことごとくはなが求めているものとは齟齬を起こしている。安藤の抱える屈折と、はなが今まさに経験した喪失との重さの落差によって、その安藤の不格好さはいっそう情けなく残酷に際立つ。

 またスーパーの従業員コミュニティの中でも、突発的な性関係が後を引き、それを断ち切ることができずにいびつな力関係と性交渉を引きずってしまうみっともなさ、それをいかに受け止めるか、拒絶するかといった人物それぞれの対応、それぞれの不完全さが描写される。恋人の目の前で、他の異性に対して明らかな不貞に見える行為を自ら進んで“仕方なく”やりながら、傍らでそれを目の当たりにする恋人に対して「僕は君のことだけが好きなんだ」と必死で弁明する姿は、滑稽さと人間の情けなさが最高潮にあらわれていて中盤のスーパーのパートの白眉となっています。


 働き口の見つけられないことや働く口にありつけそうでも何か外的な言い訳を付けて逃げることでさらに働きづらくなる悪循環、それの鬱屈や劣等感が自分を受け止めてくれる人に対しての幼稚な攻撃性としてあらわれてしまうこと。あるいは一時的に流されてセックスをしてしまった相手と、その後の関係を清算できず性交渉を継続し、恋人に自分の「誠実」さ、置かれてしまった環境の致し方なさを説明しようと繕うさま。こうした人々を前にして、たとえば“メンヘラ”等の言葉で切り捨て、己との無関係を決め込むことは容易です。もっといえば、そうやって面倒臭さをある程度遮断しなければ生きていけないケースだって往々にしてある。
 しかし根本作品において、こうした人々の時に常軌を逸した甘えを容赦なく描く表現は、その弱い人たちを突き放すためになされているのではありません。それらのみっともなさは、観ている我々にとっても、おそらくは作者自身にとっても他人ごとではなく、人間が皆否応なく持ってしまっているものです。

これまでも彼女が鋭敏に表現してきた、うんざりさせられながらも自身を省みてしまうような登場人物たちの見苦しいあがきは、根本作品において強い物語推進力となります。 今作では、そのみっともなさを個別の登場人物のエキセントリックさの水準に留めるのではなく、人間が人間にコミットすることは、そもそもがそういう見苦しい面倒臭さを引き受けること、そしてそれとひきかえに自分も持っている見苦しさを相手に託すかたちで甘えているのだということまでが語られている。以前から根本さんが描き続けてきた人間のどうしようもなさについて、今作はしかしまたその面倒臭さを受け入れていかなければしょうがないということにまで明確に目が向けられているように思います。とはいえ、そう一口に覚悟できるものではないというしんどさも覚えるほどに、人間というものの幼稚さ甘さが容赦なく描かれているのですが。

 月刊「根本宗子」は、人が恋人などに甘える際の具体的な仕草や甘え方を繊細に描き、それが傍から見ていかに気恥ずかしく、時に理不尽であるかを突きつけます。それが根本作品の大きな魅力でもありますが、それを支える役者陣の演技水準も安定していて頼もしい。本作も社会に適応できない恋人を受け入れ、絶望(し、そして最後に再び大きな受容を)するはなを演じた早織さん、コメディパートを引き受けるゆえにリアリティのレベルの変換が難しくもあるはずのスーパーの従業員利根川役の梨木智香さんをはじめ、駒が揃っている。演技のリアリティがやや異なる安藤とはなのアパート場面と、コメディ要素の強いスーパーマーケットのパートとの接続も、全体としては分断されずうまくできていました。
 月刊「根本宗子」がさらなる知名度を獲得する準備は、整いつつあるように思います。

欲望もレベル上げれば

*DOCUMENTARY of AKB48 NO FLOWER WITHOUT RAIN 少女たちは涙の後に何を見る? TOHOシネマズ有楽座 (2013.2.1)


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 封切りを待って映画館に足を踏み入れた観客の脳裏には、ほぼ例外なくひとつの、吐き気をもよおすような“茶番”が刻印されています。
 映画公開前日にYouTube上にアップされた峯岸みなみさんの坊主頭。スキャンダルの責任をとって自ら頭を丸めた(という体裁の)その映像は、自分の体感的にはこれまでにAKBがマッチポンプ的に生成してきた「劇薬」の中でも、とりわけ非ファンの反応を含めて最も目に見える波風の大きいものだったように思います。
 同時に、どこまでが誰の差配なのかわからなくなるほどにスキャンダルを自前の「物語」に取り込んできたAKBの、きわめてAKB的な露悪性のひとつでもあるように見えました。


 それは、劇薬に慣れすぎて劇薬とさえ感じなくなってゆく身体を、ある時ふと俯瞰で見るような気色悪さ。
 処分から収拾に至るシナリオまで画を描いて雑誌記事掲載の可否を判じ、その処分がAKBファンは勿論、AKBに関心を持たない、あるいは普段少なからぬ反感を持って見ている人たちまで巻き込んで世間の倫理観に訴えかけることを算段に入れ、嫌悪感の拡散や糾弾の嵐と引き換えに、絶大な話題性を獲得することを見込んだうえでの映像公開なのだろう。それをエンターテインメントとして峯岸さん自身が謀って発信しているのであれば、まだ幾分救われるのだろうか。AKBが劇薬を投与し続けるシステムであることに慣れきった自分の頭で即座にそこまで考えてはすべて打ち消して、という不毛な思考を繰り返す。


 けれどまた、思い知るのは、こういう露悪性をも孕みながらエピソードを無数に生成する装置に魅了され、それに乗っかることで、自分はAKB48というものにはまり込んでしまったのだということ。公開された動画に対して向けられる世間の圧倒的な正論に同意しながら、自分自身もまたひどく嫌悪感をもよおしながら、一旦依ってしまった楽しみの足場すべてを否定する正しさも潔さも持てずに、ファンとしてAKBを追うことを辞めない自分を持て余して、どこに頭を下げているのかわからないような後ろ暗さと、真っ当な批判に対する同調と、その批判の声に混じった文脈の齟齬をうまく消化もできず返答もできないまま口をつぐんでいました。
 日付が変わる頃、初期メンバーに囲まれて笑顔を見せる峯岸さんの写真がメンバー、また峯岸さん自身によってネット上にアップされました。
 それを見て、何を感じていいかわからないまま朝になっていました。


 そのまま目の当たりにしたAKB48ドキュメンタリー第三弾は、最初から最後まで、常に余計なフィルターに覆われながら鑑賞しているような、やりきれない手触りのものでした。
 さいたまスーパーアリーナ公演、総選挙、東京ドーム公演から秋葉原の最終公演へと、AKB48のシンボル的存在だった前田敦子さんの卒業に向けた日々が綴られてゆく。その経緯はいかに嗚咽にあふれていようと、すでに周知の過去となっている。また前田さんの卒業そのものはきわめて前向きなステップアップです。昨日までに起こっていたリアルタイムの醜悪な波乱を受け止めたばかりの自分にはそれは、気を落ち着かせていられる悠長なものに思える瞬間さえありました。できることなら、こんなふうに悠長にだけ見ていたい。

 そう考えてぞっとする。自分はここに映っている彼女たちの疲弊と同じものを一年前に観て、面白さの裏に伴走する、彼女たちの感情の起伏を消費している己のグロテスクさに折り合いをつけられずにいたはずじゃなかったのか。劇薬であることは重々知っているのに、それにどれだけ自分が慣れてしまっているのか気づかなくなっている愚かさと恐ろしさ。そのことを、総選挙直後のシーンで映されたある研究生の姿でようやく思い知る。

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 そんな劇薬としてこの映画で、冗談のようにルーティーン化してあらわれるのが、恋愛スキャンダルです。AKB48が発信するこの映画は、AKB48の恋愛禁止ルールが不毛であるという、自明すぎる事柄を自ら、うんざりするほどに見せつけてきます。ファンの前での釈明、それを見守り、また顔を背けるファン、それにメンバー。映されるメンバーの人選(半ば偶然的にカメラが押さえていたものであるにせよ)が無言で突きつける、恋愛禁止という檻の醜悪さ。

 実質的に誰が望んでいるのかさえわからなくなった恋愛禁止という檻は、もはやそれを梃子にして残酷な「サプライズ」を内部生成するためだけに機能しているような無意味さを呈しています。ステージで見せるアイドルの身体の躍動とは関わりのない場所で恣意的に描かれる波乱は、もはや本体を失っているように感じられました。


 前田さんの旅立ち、板野さんの新たなステップ発表、研究生で始まり研究生で終わる構成に象徴される、AKB次世代の躍動。AKBを旅立つ者に向けても、AKBをこれからつくる者に向けても、明確に希望を託したはずの今作。AKBが自家中毒的に生じさせているリアルタイムの波乱に呑まれ、咀嚼することができないまま観終えていました。


 自分はアイドルのパーソナリティを身勝手に解釈して遊ぶ、何千何万のファンの一人。よくあるファンの一人。その心理を最大限にスリリングに、最悪にグロテスクにくすぐり続けるのがAKBであることなんて、前からわかっていたはず。それでも安心させてくれる何かを求めて、その何かにすがることで身勝手な遊びを続けられる。安心できる確証じゃなくていい。けれど明確に致命的な危うさに踏み込むことはお願いだから避けてほしい。

 言葉にしたくないすべてが杞憂でありますように。

世界としての図書館

*イキウメ『The Library of Life まとめ*図書館的人生・上』 東京芸術劇場 シアターイースト (2012.11.20)


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 一見ごく日常的に思える世界の中にふいに非日常的あるいはSF的な設定が挿入され、それが世界を覆ってゆく不穏さが表現される。またある時はその設定を通じて、共感・共存し合えないこと、互いを理解し合えないことの絶望を鮮やかに描いてみせる。イキウメの作品で受ける大きなインパクトとは、簡潔に言えばそのようなことになります〔過去のレビュー:『散歩する侵略者』(2011.5)『太陽』(2011.11)〕。


 そのイキウメがオムニバス形式でエピソードを紡ぎ、上演してきた「図書館的人生」(Vol.1~3:2006~2010年)から、シリーズをまたいでエピソードを選り抜き、再構成したのが今回の「まとめ」です。とはいえ、ただのアンコール企画や、脈絡なくエピソードが個別に並べられるような類のものではなく、そこには初見再見に関係なく見て取ることのできるひとつのまとまりが存在します。

 本作において、端的にそれは「“世界”が具現化されているものとしての図書館」といえるでしょう。本作で特徴的なのは、過去にオムニバスで上演されたことのある、設定も人物もまったく異なる各エピソードが、すべて大元の舞台である図書館の中で生じているように見えることです。そしてそれらのエピソードが進行してゆく傍らでは、そのエピソードに登場しない人物が、図書館で開架から引いてきた書籍を読みふけっている。つまりそれは、上演中のエピソードが、同時に図書館内に所蔵されている書籍に書かれているものとして、図書館の利用者に読まれていることを意味します(ちなみに個別のエピソードも、それぞれ少しずつ他のエピソードとリンクさせられている)。


 この図書館にある一冊一冊の本には、人物ひとりひとりの生の営みが収められている。一冊一冊が人生であり、それを集積する“世界”として図書館は存在します。この膨大な所蔵書籍のどこかに「自分の本」も存在するはず。けれども、検索もできなければ本の場所も流動的。訳知り顔で「お前に似た本を読んだことがある」などと言い出す輩がいても、そんなものは大抵勘違い。手にとった本(誰かの人生)との偶然の出会いに耽溺し、「自分の本」を気まぐれに探しながら、“世界”としての図書館の周遊は終わらない。終盤、図書館内がそれぞれの書籍(エピソード)の声たちであふれるのは、まさに世界の喧騒。この世界≒図書館の見立てが混在して見えるさまは非常に面白い。


 ただしまた、2時間超の本作が中だるみなく飽きさせないのは、その設定にのみ安住していないから。毎度のことながらイキウメのクオリティに役者陣の安定感と各エピソードの作りの繊細さは不可欠です。白眉は万引きのプロと懸賞応募のプロが、一方的に見える関係から水面下で心を通わせてゆく「いずれ誰もがコソ泥だ、後は野となれ山となれ」のエピソード。非現実的な設定が登場しないこの話の中で、それぞれの理念と身勝手さ、雄々しくなく己を貫くさまの表現、ユーモラスさの塩梅、そしてラストに来る小さな心地よさへの展開は、人間の愛おしさを見せてくれる。このエピソードに関しては再見でしたが、感慨は変わらず鮮烈でした。この話の主演となるそれぞれの「プロ」を演じた安井順平、伊勢佳世の距離感も演技も素晴らしい。


“世界”としての図書館の中で、無数の人生が溢れているさまはまた、いくつもの役柄として様々な設定で幾度も生きる、「役者」たちと重ね合わせることも可能です。合計6つのエピソード(+図書館パート)が交互にあらわれてくる本作では、役者たちが瞬時に別エピソードの異なる役として人格を変え、またあるきっかけで以前のエピソードに戻ってさっきまでの役柄を生きます。ひとつひとつの本が、役者の役柄と設定を引き出すものとして機能していることを考える時、役者が別人格にスイッチを切り替える瞬間が、より興味深いものとして抽出されてくる。特に伊勢佳世の“奪衣婆”への切り替わりは格別に素晴らしかったです。

「自分」の人生が書かれた本を手にすることができたとして、それを読み進めている「現在」とその本との間にはどのような関係が生じるのか。ふと浮かぶそんな疑問にケリをつけるような安井順平の最後の言葉は、一人の人間としての「自分の本」への向き合い方と、役者としての彼ら彼女らの生が重ね合わされるようで、清々しく綺麗でした。
 作品全体に漂う明るい基調も相俟って、イキウメのタッチの繊細さと役者陣の巧みさとが、気持よく堪能できる作品になっていたかと思います。
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